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鞭の柄でとんとんと肩を叩きながら、ステラは皮肉な口を利く。 「まさか聖なる歌姫自らが魔物を連れ込んでるなんてな」 「何を言ってるの?」 怪訝そうに訊き返すエヴァは、本当に言われた意味を理解していないようだった。 ステラは、僅かに目を瞠って驚きを表わす。 「気づいてないのか?そいつはインキュバス、女誑しの夢魔だぜ」 彼に顎で指し示されたアジールは、顔色1つ変えずに不名誉な謗りを受け止めていた。 むしろ、エヴァの方がむきになって反駁する。 「ふざけないで!アジール先生は怪しい人じゃないわ!あなた達みたいな胡散臭い魔法使いと一緒にしないで!」 だが、彼女の剣幕は、生憎とステラには通用しなかった。 「この部屋には厳重なセキュリティが敷かれてるよな?その上、今夜はルディが結界を張ってた。大方「名前を呼べばいつでも何処にいても君の許に馳せ参じる」なんて甘い言葉に騙されてんだろうけど、そんなコト、まともな人間に出来る筈ないだろ」 「あ、貴方だって窓から入って来たじゃない!」 図星を指されて逆上したエヴァは、何とか反論の糸口を掴もうと感情的にステラに食って掛かる。 「だいたい、防犯システムはどうなってるの!?」 それに対する応えは、意外な場所から齎された。 「セキュリティシステムには少し細工をさせてもらった。動作そのものには問題がないけれど、俺達を侵入者とは認識しないようになっている」 声の主の姿を求めて振り返ったエヴァとアジールを、左手に提げたレイピアの柄に手を掛けたランが静かに覗っている。 何の前触れも無しにこの場に現れて2人の背後を取った彼は、混乱するエヴァの眼差しを受けて淡々と種明かしをしてのけた。 「結界の方は保護対象者の意思を妨げるものじゃないから、君自身が受け入れたモノを媒介にすれば中の様子もある程度は解るし、こんな風に領域内に転位して来る事も出来る」 「媒、介…?」 「そ。例えば、あんたが後生大事にしてるそのペンダントとか?」 ステラの言葉に、エヴァは首に掛けた音叉のペンダントを握り締める。 それは、「おまじない」と共にアズールからエヴァに贈られた物だった。 同時に、結界の中に招き入れたもう1つの「モノ」に思い至ったエヴァは寝室と隣の部屋とを仕切る衝立を押し退ける。 「あの子ね!」 其処には、隣室で眠っていた筈のティアラの姿があった。 「ごめんね。あたしは、ランと繋がってるから」 怒りに駆られたエヴァは、心底申し訳なさそうに告げるティアラの言葉に引っ掛かりを覚える余裕もなく、蒼褪めた顔で言葉をなくして立ち尽くす。 ステラは、それ以上彼女に構おうとはしなかった。 「で?」 軽い調子とは裏腹に鋭い視線をアジールに据えて、挑むように問いを投げかける。 「名うての夢魔サマがいつからあんなオコサマにまで守備範囲を広げたんだ?ロリコンに宗旨変えか?それとも青田買いってヤツか?」 それまで黙って事の成り行きを見守っていたアジールが、その時初めて口を開いた。 「下らない。下種の勘繰りだな」 如何にも優男といった甘い面を小馬鹿にするような笑みに歪めたアジールは、ステラの挑発をふっと鼻で一笑する。 「所詮貴様等下賤の輩には解るまい。人間ばかりか我々上位種さえ聖魔を問わず惹きつけて止まぬ彼女の声の力の程が」 「あぁ、解んないね!」 ショックに肩を震わせるエヴァの姿を視界の片隅で捉えたステラは、内心で舌打ちしつつそう叫び返した。 エヴァの才能がどれ程のものか、それが解らないステラではない。 理解できないのは、アジールの択った手段の方だ。 「大体、力が欲しいんならさっさと攫うなりなんなりすりゃ良かったんだ。わざわざ誑し込むなんて回りくどい事してんのはただ単にあんたの趣味だろ」 エヴァの我儘振りにはいい加減辟易していたステラだが、それでも純真な乙女心を玩ぶような遣り口には憤りを覚えずにはいられなかった。 そんなステラの激情を鎮めるように、ランが冷ややかに口を挿む。 「本人の意思に反して力を振るわせれば、魂の輝きは減ずる。魂の磨耗を防ぐには、あくまで彼女が自ら従属するように仕向ける必要がある」 「ほう、少しは物の道理の解る子供がいるようだな」 理性的なランの指摘に、アジールは軽く眉を上げて感心を表した。 それから、大勢の聴衆の面前で熱弁を振るう講師のように芝居がかった調子でこう続ける。 「そう。彼の言う通り、本来の力を引き出そうと思えば無理強いは禁物だ。だからこそ、列聖の儀式によって聖別される前に私が手ずから口説き落とすなどという手間隙をかけているのだよ」 敵の肩を持つかのようなランの発言に一瞬目を剥いたステラだったが、アジールの独白を聞くうちに冷静さを取り戻した。 ランの狙いは、アジール自身の口から彼の思惑を語らせる事で、エヴァにかけられた魅了の呪縛を解く事だ。 実際、傷ついたエヴァの眼差しからは、アジールに対する妄信の色は消え失せていた。 それでも、ステラの胸にはむかつくような後味の悪さが残る。 「はん、そうかよ。でも、ちょっとばかし相手が悪かったな」 「そうかな?」 精霊銀の鞭を構えて苛立ちも露わに噛みつくステラに、アジールは魅惑的に微笑んだ。 流れるような洗練された動きで右手が上がり、ぱちんと気障に指が鳴らされる。 それが合図となって、そこらじゅうからわらわらと小鬼が湧き出した。 「げっ!指揮官《コマンダー》クラスかよ!」 咄嗟に跳び退って第一撃を逃れたステラは、ひくりと頬を引き攣らせる。 魔物や精霊といった魔法生物の間でも、その能力によって格の違いが存在する。 より強大な能力を持つ者は、下位種族を隷属させ自在に使役する事が出来るのだ。 アジールは、気儘な単独行動を好む夢魔としては珍しい事に好戦的な使い魔を数多く従えているらしかった。 「性質が悪いな」 こんな時にも落ち着きを失わない声で呟いたランは、しっかりティアラを庇う位置に立って剣を抜いている。 彼の周囲には、既に何体かの魔物が浄化された名残の光が踊っていた。 毒を持つ爪や鋭い牙を剥き出して襲い掛かって来る使い魔の群れを鞭の一振りで打ち払いつつ、ステラは廊下へと続く扉を振り返る。 「ルディ!」 「解ってる」 声がかかるよりも早く寝室に飛び込んで来たルディは、おっとりとした雰囲気からは想像できない素早さでエヴァの腕を掴んでアジールから引き離した。 そのまま部屋の隅にエヴァを連れ込むと、彼女に背を向けて長い槍を錫杖のように構える。 魔導士ではないものの、神に愛され優れた感覚に恵まれたエヴァには、ルディが部屋の壁を利用して彼女を護る障壁を張ったのが解った。 同じ事を、ステラやランも感じ取ったのだろう。 幼さを残した顔立ちに似合わぬ獰猛な光を眸に宿して、ステラが宣言する。 「さぁ、戦闘開始だ」 |