執務室で机に向かっていたシェルアの許にその報せが齎されたのは、そろそろ午後のお茶の時間にしようかという頃だった。
 「失礼します!幕僚本部より緊急連絡です!」
 「どうした?」
 書類から顔を上げて尋ねるシェルアに、伝令の少年は張り詰めた表情で報告する。
 「年少部隊の領域内への魔物の侵入が確認されました」
 「またか」
 シェルアは、些かうんざりとした様子でペンを置いた。
 
LUX CRUXの仕事には、悪辣な魔術師や妖術使いの退治も含まれる。必然的に、そういった方面の敵も多い。
 その手の輩が放つ魔物の襲撃は、然程珍しい事ではなかった。
 「で、出現場所は?」
 落ち着いた、というよりは飽き飽きしたといった調子で、シェルアはそう尋ねる。
 少年は、緊迫した面持ちで答えた。
 「資料庫です」
 「あー」
 魔導絡みの有象無象が山積みになっているだけに、資料庫のような空間は元々魔を呼びやすいのだ。
 慣れもあって投げ遣りな気分で聞き流しそうになったシェルアは、次の瞬間険しい目つきで椅子を蹴って立ち上がる。
 「何だと!?」
 資料庫では、入隊したばかりの子供達が初任務に当たっている筈だった。
 「よりによってこんな日に!」
 舌打ちせんばかりの勢いで呟いたシェルアは、隣に控えていた副隊長を鋭く振り返る。
 「キーラム!」
 艶やかな褐色の肌をしたスキンヘッドの少年は、彼女の命令を待たずに身を翻した。

 

+ + +


 「…嘘だろ?」
 悲鳴の発生源に駆けつけたステラは、信じられないものを目にしたといった表情で呆然と立ち尽くした。
 彼等がいるのは、天井の高い広間にテラスのように張り出した中二階といった造りのフロアだ。
 その階下で、9つの頭を持つ蛇が暴れている。
 魔物の周囲には不運な被害者が倒れ込んでいて、数人の勇敢な少年少女が負傷者を護るように立ちはだかっていた。
 「…ヒドラ?」
 大抵はのほほんと構えているルディの洩らした呟きからも、さすがに驚愕が伝わって来る。
 ステラは、頬を引き攣らせてこう吐き捨てた。
 「新入隊員の歓迎会にしちゃ冗談きついぜ」
 そうしている間にも、外部編入らしき1人の少年が手にしていた斧でヒドラの首に斬りかかる。
 「バカっ!止め――っ」
 上階からステラが投げかけた制止の声は間に合わなかった。
 振り下ろされた刃が、見事に首の1つを切り落とす。
 が、直後に傷口から2つの首が生え出した。
 近くに居合わせた数人の隊員が、新たな首の毒牙にかかる。
 「ちぃっ、迂闊な攻撃しやがって!ヒドラの頭は普通に斬ったんじゃ分裂するんだよっ!」
 傍にいたティアラを抱き込むようにして庇いつつ叫んだステラは、彼女の身柄をルディに預けると手摺りを飛び越えた。
 階下に降り立った彼は、機敏な動きで立ち上がると同時に背後で竦んでいる一団を振り返る。
 「救護班!怪我した連中を収容しろ!無事な奴は援護を!」
 その一言で、子供達は衝撃と混乱から立ち直った。
 無傷な者、比較的軽傷の者が魔物の動きを牽制する隙を縫って、負傷者が治癒魔導の使い手の元へと運び出される。
 「腕に覚えのある奴は残れ!他は救護所に退避!ルディ!」
 「解ってる。護りは任せて」
 幼等部隊から彼と行動を共にしてきたルディの対応は迅速だった。
 負傷者や非戦闘要員が救護所へと避難し終わるのを待って、どこからともなく取り出したウィングドスピアの穂先で床に見えない線を引く。
 最後に、槍の柄を持ち替えたルディがカンと音を立てて石突を床に突き立てると、彼等の目の前に障壁が発生した。
 一方、ステラは現場に残った面々――主にある程度場数を踏んでいる繰り上がり隊員だ――にてきぱきと指示を出す。
 「首は、傷口を炎で焼けば再生しない。武器に火炎属性を付加するのを忘れんなよ!」
 そう言い放った彼の手には、白銀の鞭が握られていた。
 「宿れ、火精【イグニス】!」
 簡潔な詠唱に伴い、鞭が炎を纏う。
 燃え上がっているわけではない――精霊銀を編んだ鞭が、火の精霊を宿しているのだ。
 LUX CRUXへの入団に当たって、団員は1点だけ魔導武器を持ち込む事が許されていた。
 それらは、普段は魔法で異次元に収納されている。
 何しろ、現代社会で日常的に武器を携行するのは不自然極まりない…状況によっては、不審者として即座に拘束されかねない。
 それ故、武具の携帯の仕方は、入隊が決まった子供達が真っ先に習得しなければならない事柄の内のひとつに挙げられていた。
 ステラに続いて、他の隊員達も各々得物を取り出してヒドラへと向き直る。
 戦闘再開だった。
 子供達の活躍で、10に増えた頭部の内4つまでが断ち落とされる。
 しかし、これなら何とかなるかも…と誰もが思った矢先に、中央に位置する一際巨大な頭が大きく顎を開いた。
 「しまった!」
 ステラが注意を促すより早く、魔物の口から瘴気の息が吐き出される。
 咄嗟に魔法で風を起こしたステラの周りで、子供達が次々と斃れていった。
 「くっ」
 魔物から僅かに距離をとって、ステラは膝をつく。
 風精の膜は瞬間的にステラを護ったが、その効果は永続的なものではなかった。
 閉鎖された資料庫内では瘴気は薄まらない。遅かれ早かれ彼の身にも毒が及ぶだろう。
 だからといって、ルディの結界を解くわけにはいかない。そんな事をすれば、退避している子供達にまで被害が広がるだけだ。
 次第に困難になる息の下で、ステラは必死に対策を模索する。
 翳みかけたその視界に、不意に銀光が走った。
 ふっと息が楽になるのを感じて顔を上げたステラは、其処に三日月形のガードを持つ小型のレイピアを提げた黒髪の少年の姿を見出して目を瞠る。
 「ラン=ユエル!」
 資料庫内の空気を一気に浄化してのけたランが、湖水の静謐さで彼の眼前に佇んでいた。
 その視線は、ステラではなくヒドラへと向けられている。
 「おい、無茶すんなよっ!?」
 果敢にもランがこの魔物に闘いを挑むつもりでいる事を覚ったステラは、思わず彼を止めようとした。
 治癒や浄化を専門としないステラにも、資料庫内全域に作用が及ぶような浄化魔法が相当魔力を消耗する事くらい想像がつく。
 だが、ランは退こうとはしなかった。
 彼が手にした剣の柄頭にあたる球体の中に浮かんだ五芒星の頂点の1つが赤い光を放ち、刃元に北斗七星の刻印が施された蒼白い刀身が炎を帯びる。
 ヒドラは、生意気な闖入者を標的に定めたようだった。
 固い鱗に覆われた長い尾が、横殴りに打ち据えられる。
 痛恨の一打は、しかし、ランの体を傷つける事無く水の壁に弾き返された。
 水精の防御魔法だ。
 素早い剣捌きで叩きつけられた尾を撫で斬りにしたランは、更に石化呪文を唱えてヒドラの長大な身体を床に縫い止める。
 一連の戦いぶりに気遣いは無用と判断したステラは、自らも再び鞭を取って戦列に復帰した。
 その時点で、ランは攻撃から手を引き、瘴気に中てられた新入隊員の回復とステラのサポートに専念する。
 ランの魔法で鋭さを増したステラの鞭は、硬化したヒドラの鱗をも易々と切り裂き、強靭な肉と骨とを断ち落とす。
 倒れた隊員やランに向けられた攻撃はステラが全て叩き潰し、度々襲い掛かる瘴気の息は、ステラへと届く前に浄化された。
 言葉も、視線すらも交さないまま、2人は見事なコンビネーションで次々とヒドラの首を落としていく。
 それでも、さすがに最後に残った中央の首だけは鞭やレイピアでは断ち斬れない。
 ステラとランは、同時に呪文の詠唱に入った。
 ステラの呪文で床から岩の槍が現れ、ランの声に従って空中で氷の槍が結晶する。
 2本の槍は、同時にヒドラの心臓を貫いて止めを刺した。
 ヒドラの上げる断末魔の咆哮が大気を震わせる。
 震動で窓硝子や照明が砕け、最期の息と共に吐き出された大量の瘴気が再び資料庫内を汚染した。
 そんな悪足掻きも、ステラとランの2人だけなら問題ならなかっただろう。
 だが、割れた硝子の下には未だ倒れたままの子供達がいた。
 一瞬、ステラは対処に迷う。
 鞭で払い除けようとしても、破片は更に細かくなるだけだ。
 ランはその場から動こうとしなかった。危険も顧みず子供達の為に障壁を作り出し、瘴気の浄化を続けている。
 考えた末に、ステラは風を巻き起こした。
 同時に、声を張り上げる。
 「撤退しろ!」
 大半の破片は、壁に叩きつけられて砕け散った。
 意識を取り戻した子供達は、ふらつきながらも自力でルディの張った結界へと避難する。
 多少の取りこぼしは出たものの、ランなら余裕で回避できる筈――ステラは、そう思っていた。
 その彼の目の前で、何の前触れもなくランの体がくらりと傾ぐ。
 過労だ。魔力の消耗が激し過ぎたのだ…そうステラが気づいた時には、既に手遅れだった。
 蹲ったランの背に、無数の硝子の欠片が降り注ぐ。
 「ランっ!!」
 立ち竦むステラの目の前で、赤い霧が舞った。


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