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ヴィリディス
―エルフの森―
ギガント・アラクネアの断末魔の叫びに共振した風鳴りの樹の不快な残響が止むのを待って、ふらつく身体を奮い立たせる。
魔法によって生じた炎は、周囲に燃え広がることなくギガント・アラクネアの肉体だけを灼き払うと跡形もなく消え失せていた。
微かに焦げた下草と薙ぎ倒された木々だけが戦闘の名残を留める広場を横切って、俺は風鳴りの樹に近づいた。
さっき、この樹に触れようとした時に視界の片隅を掠めた緑色の煌き――ギガント・アラクネアが俺に奪われまいとしていた物の正体を見極めるべく、絡み合った蔦の隙間へと手を伸ばす。
其処にあったのは、色硝子みたいに半透明な素材の小さな石版だった。
表にも裏にも文字や図柄を刻んだ形跡はなく、一分の狂いもない正方形をしてるって事以外は何の変哲もなさそうに見える。
「あの化け物はこいつを狙ってたのか?」
魔物にとっては居心地の悪い筈のエルフの領域に入り込んで、あまつさえ命がけの死闘を演じてまで欲しがるほどの価値があるものだとは思えず、陽に透かしてみたりつついてみたりしながら首を捻っていると、いつの間にか隣に並んでいたレイが躊躇いがちに口を開いた。
「…或いは、守ろうとしてたのかも」
「何だよ、それ?」
何で魔物がエルフの森でお宝を守ってなきゃなんないんだ?と訝しむ俺に、レイは声を潜めて答える。
「たぶん、それが【緑】のステージの鍵よ」
「…なるほどね」
ステージクリア直前お約束のボスキャラってわけか。
どこか醒めた意識で納得した俺は、ポケットに忍ばせいていたキーアイテムの立方体(キューブ)を取り出した。
確かに、掌サイズのそれと石版とは形も大きさも通じるものがある。
俺は、立方体(キューブ)を形作ってる平面の1つ、緑色の相に、手にしていた石版を宛がった。
かちり、と小気味の良い音がして、石版が立方体(キューブ)に嵌め込まれる。
その瞬間、ぐらりと視界が揺らいだ。
「何だ!?」
緻密に描き出されていた仮想現実の風景が急激に現実味を失い、ぐにゃりと不自然に歪み、或いは溶け始める。
まるで、画用紙の上に描かれた水彩画が、紙ごと水に落ちて滲んでいくような感覚。
同時に風鳴りの樹が奏でるふぃぃぃぃんという不協和音が強烈な眩暈を誘って、目の前の景色が狂って見えるのが揺れる視線の所為なのか、本当に世界が壊れているのか解らなくなる。
「く、そ…っ!」
無様に膝をついて、それでも噛み締めた唇の痛みで何とか正気を保っていた俺は、風鳴りの樹から触手のように延びた蔓がレイとガランサスを襲う光景を目の当たりにして蒼白になった。
「レイ!」
気力を振り絞って立ち上がりかけた俺に向けて、ガランサスがレイを突き飛ばす。
咄嗟に腕を伸ばした俺がレイの体を抱き止めたのを見届けて僅かに安堵の表情を見せたガランサスの体を、次の瞬間、無数の蔓が攫っていった。
「ガランサス!」
風鳴りの樹に縛りつけるようにガランサスを絡め取った蔓は、更に手首や首筋の膚を突き破って彼の体内へと侵入する。
「あぁ!…っうぁ…あっ!」
「ガランサスっ!!」
手足を拘束され、苦痛に身を捩る事すら許されずただただ大きく目を瞠って苦悶するガランサスを見るに堪えずに、俺は風鳴りの樹に斬りかかろうと剣を振り上げた。
だが、それはガランサスの鋭い制止の声に妨げられる。
「寄るな!」
顔を上げ、こちらを見据える彼の瞳は、意外にも強い意志を宿していた。
未だ乱れる呼吸の合間を縫って、ガランサスは風鳴りの樹と半ば同化する事で得た知識を伝えて遣す。
「どうやら、風鳴りの樹はこの森だけでなくヴィリディスそのものの要だったらしい」
「そんな…」
鍵を外す事でステージそのものが崩壊するなんて知らなかった。
愕然とする俺の罪の意識を見抜いたガランサスは、冷たく突き放すような声でそれを否定する。
「勘違いしない事だ。おまえ達が間違いを犯したのではない。魔物がその石版を狙っていたのだとしたら、対を成す器を持つ者の手に渡る方が良いのだろう」
その口調からは、彼が本当に俺達を責めるつもりも、自身の行動を悔やむつもりもない事が伝わってきた。
俺には、そんな彼の心境が理解できない。
人とは違う命を生きるエルフだから?でも、本当の「彼」は…彼を演じてるのはエルフなんかじゃないだろう?
困惑する俺を意に介さず、はぁ、と苦しげに深く息を吐いて、ガランサスは続ける。
「だが、だからといって我々もむざむざと滅びを受け入れるつもりはない。幸い、風鳴りの樹に魔力を与えている限り、森の魔法は途絶える事なく続くようだ」
魔力を喰らう霊木――それで、風鳴りの樹の触手が1番近くにいた俺じゃなくてレイとガランサスに襲いかかったのか。
何処か遠いところの出来事のようにぼんやりとそう考える俺を他所に、ガランサスは淡々と彼の決意を語る。
「私は、此処で風鳴りの樹を護る」
「でも――」
「人間の子の命では、この世界を支える事は出来ない」
戸惑いに揺れる俺の言葉を、彼は素気無く遮った。
それから、ふっと瞳を和らげてこう告げる。
「償いを望むなら、私の力が尽きぬうちに世界を救って欲しい」
気がつけばしんとした静寂に包まれていた風鳴りの樹が、再び歌いだそうとしていた。
ガランサスと俺達とを隔てる空間が、石を投げ入れられた水面のように波紋を描いて漣だつ。
【cubic world】の相を結ぶ扉が開いたのだ。
「さぁ、もう行け」
ガランサスの言葉に促されるように、俺とレイはヴィリディスの世界から弾き出される。
最期に見た彼の表情は、不思議と穏やかだった。
虚空――上下左右の感覚も時間の感覚もない場所で、抱えた膝に顔を埋めて蹲る。
有り難い事に、レイは下手な慰めや言い訳を口にしたりはしなかった。
ただ、黙って、俺の気が済むのを待っていてくれた。
どれくらい、そうしていただろう。
「ガランサスはどうなるんだ?」
ほんの少しだけ顔を上げて、けれどレイの方は見ないまま、俺は静かにそう問いかけた。
キャラクターとしての死を迎えれば、プレイヤーの意識は現実世界に戻れるかもしれない。
でも、ガランサスは…彼の択んだ道は。
「ヴィリディスを維持する為には、風鳴りの樹に魔力を供給し続けなければいけないんだと思う」
抑揚を殺したレイの答えに、きつく目を瞑って天を仰ぐ。
それでは、彼は苦痛から逃れる術もなく、生きたまま貪られ続けるのだ。
子供の頃に聞いたプロメテウスの神話を思い出す。
大神に背いて人間の為に天上から炎を盗み出した咎で、岩に繋がれたまま死ぬ事も出来ず何度でも蘇る肝臓を禿鷹に喰われ続ける、生贄の神の逸話。
大きく吸い込んだ息をそっと吐き出して、俺はレイを振り仰ぐ。
「俺達がこのゲームをクリアすれば、ガランサスも解放されるんだよな」
だったら、こんな茶番はさっさと終わらせてやる!
自分に言い聞かせるように一声叫んで、俺は勢い良く身体を起こした。
赤、青、緑、茶色、白、黒の6色の正方形を組み合わせた――今は緑の光が消えた立方体(キューブ)を、掌の中に握り締める。
次の目的地は、ヴィリディスの反対側に位置する【茶】のステージだ。
「行こう」
胸に残る苦味を振り切って、俺は光る壁の向こうへと足を踏み出した。