ヴィリディス
―エルフの森―

 
 張り出した木々の枝葉が天然の屋根を形作る領主の館を出て、ひたすら森の奥を目指す。
 さすがにこの辺りまで来ると、エルフ独特の魔法だか結界だかで護られているのか、低レベルな魔物が入り込んでる様子はまったく感じられない。
 それでも警戒を怠ることなく慎重に歩を進めるガランサスについてしばらく行くと、どこからか物悲しい笛の調べに似た音が聞こえて来た。
 「風鳴りの樹が歌う声だ。怪しむ事はない」
 こっちが何事かと尋ねるより早く、ガランサスが余計な詮索は無用とばかりに素っ気無くそう言い放つ。
 それ以上何か訊こうにも、元よりそう待つ程もなく俺達は音の出所へと辿り着いた。
 「…これは…?」
 目の前に現れた不思議な光景に、俺は思わずぼけっと口を開けて見惚れてしまう。
 木々に囲まれて何故か其処だけがぽっかりと開けた空き地に、一本の樹が生えていた。
 少なくとも、遠目には幹に蔦を這わせた大きな樹に見える。
 でも、近づいてみると中は空っぽで、複雑に絡み合った網目状の蔦の隙間を風が通る度に竜笛を吹き鳴らすような哀愁漂う音色が生じていた。
 この音が、風鳴りの樹って名前の由縁なんだろう。
 「寄生木の一種ね。大木の表皮に着生して蔓状の枝を伸ばし、日の光を浴びるのに充分な高さに達したところで葉を広げて自生し始める変わった生態の植物よ。宿主の方は、光合成を妨げられた上に張り巡らされた枝に締めつけられて成長できなくなり、やがては枯れてしまうの。そうして、こんな風に中が空洞の「樹」ができる」
 「ふぅん」
 少し下がった位置から頭上に広がる梢を眺めていたレイが幼い外見に似合わない博識を披露するのを聞きながらひとしきり自然の業に感心していた俺は、何の気なしに目の前の幹もどきに手を伸ばす。
 と、風鳴りの樹の裏手から不意に強烈な妖気が溢れ出した。
 「アルっ!」
 差し迫った声に突き動かされて腕を退くより早く、粘着性の高い糸が絡みつく。
 触れれば容易く切れそうなくらい細いくせにやたらと頑丈なその糸は、それなりに腕力も体重もある俺の抵抗にもびくともしない。
 レイが飛刀を放って物理的な拘束と精神的なパニック状態の双方から救い出してくれなければ、正直言ってかなりやばいところだった。
 だが、反動で尻餅をついたところへ、今度は強靭な大顎が迫って来る。
 咄嗟に剣で受け止めたものの、牙を伝って滴り落ちる液体に触れた服の端がじゅっと音を立てて溶けるのを目にして血の気が引いた。
 「げっ、強酸かっ!?」
 衝撃に怯みかけた俺を叱咤するかのようにまっすぐ飛来した矢が、禍々しい暗褐色をした単眼を射抜く。
 相手が痛みと怒りに苦鳴を上げて身を捩っている隙にようやく解放された俺は、グロテスクな敵の姿に呻き声を漏らした。
 「き、気色悪…」
 黒地に濁った紫の縞模様の、巨大な毒蜘蛛…そのサイズは、胴体部分だけで軽く2mは越えてやがる。
 「ギガント・アラクネア!昆虫・節足類系ではトップクラスの魔物よ!」
 「うっそだろ〜」
 こんな時にも冷静なレイの告げる情報に、俺はちょっと泣きたい気分になった。
 だって、こんな初期レベルで遭う敵じゃないぜ?
 だからって挫けてる場合じゃないのは百も承知してるから、意識を戦闘モードに切り替える。
 とりあえず、巨体に見合わず素早い上に長いリーチを持つ相手の攻撃から身を守る為に、俺達は散り散りに木立に身を潜めた。
 その上で、各々が機敏に動き回りながら攻撃を仕掛ける。
 こういった森の中での戦闘に慣れたガランサスが然程攻撃力の高くないショートボウをメインで使ってるのは、経験に基づいた非常に理に適った選択だった。
 小型で軽いこの武器なら、入り組んだ木々の間でも動作に制約が少ないし、移動しながらでも攻撃できるのだ。
 大きさの割りに思いの外威力があるのは、とねりこに他の素材を組み合わせた合成弓だからなんだろう。
 ギガント・アラクネアの頭部にある8つの眼の5つまでが、ガランサスの矢によって損なわれている。
 残る3つの内の2つは、レイの飛刀が潰していた。
 相手が身を守ろうと張り巡らせる粘着糸の網を風の魔法でスピードをつけ鋭さを増した金属糸の部分で切り裂いての、巧みなピンポイント攻撃だ。
 俺はといえば、敵の攻撃を他の2人から逸らして自分の方へと惹きつけ、かつ相手の機動力を殺ぐ為にヒット&アウェイで斬りかかってどうにか左右の足を2本ずつ仕留めはしたものの、それ以上は責めあぐねてる状況だった。
 何しろ相手は10本足で、その内の2本は感覚器を兼ねた触肢ときてるから、トータルでも充分なダメージとは言い難い。
 でも、メチャクチャ硬くて凶暴な長い足と毒液を仕込んだ牙のおかげで迂闊に接近戦に持ち込むわけにはいかないし、かといって急所のある胴体部分は剛毛に覆われていて飛び道具を受け付けないしで、決定打が見い出せないままずるずると戦闘が長引いてしまっている。
 このままじゃ、早晩ガランサスの矢が尽きるだろうし、こっちの体力だってそうは保たない。
 そうこうする内に、膠着した戦況を打開するつもりなのか、それまで防御の甘い眼だけを狙っていたレイが攻撃の矛先を相手の身体の中心部に転じて飛刀を放った。
 しかも、どういうわけか、スピードを殺して緩やかな放物線を描くような投げ方をする。
 相手を捕捉する目的の時に使うこの方法じゃ、この相手には通用しない。
 案の定、張り巡らされた糸に武器を絡め取られて、レイの小柄な身体が木陰から引き摺り出される。
 だが、それこそがレイの狙いだった。
 自身を引き寄せる強暴な力には無理に抗わず、飛刀を投げた瞬間から詠唱を始めていた呪文を落ち着いて唱えきる。
 彼女の腕から生じた火炎が、絡み合う糸を伝ってギガント・アラクネアの本体へと瞬く間に走った。
 ぎぃやああと耳障りな悲鳴を発しながら、灼熱の炎に包まれた毒蜘蛛の巨体がのたうつ。
 「アル!」
 炎が回りきる直前、ナイフで粘着糸を切断してレイを救い出したガランサスが、鋭く俺の名を呼んだ。
 「まかせろ!」
 彼の意図を察して、動きが止まった敵の胴体の下へと走り込んだ俺は、柔らかい腹部に鍔元まで剣を捩じ込む。
 そのまま、下腹部を切り裂くように切っ先を滑らせながら巨体の下を潜り抜けた俺の背後で、奇怪な断末魔の声が風鳴りの樹を震わせた。