ヴィリディス
―エルフの森―

 
 森の中の薄暗い小径を小走りに駆け抜ける。
 右前方から、敵の気配。
 下草を踏みつける複数の足音を聞きつけてそちらに向き直った俺の耳許を、レイの手から放たれた刃がひゅっと掠める。
 柳の葉の形をした飛刀に目に見えないほど細い金属製の糸――ピアノ線のようなものだ――を結びつけたこの武器は、ゲーム中に用意されたのではない、レイのオリジナルの作品だ。
 手元の糸を操って振り回せば離れた敵を攻撃できるし、遠心力で非力さも補える。
 更に、糸の部分にも接触判定が設定されていて、使い方次第で触れた相手を捕捉する事も切り刻む事もできるという優れものだった。
 オリジナルの武器や防具を既存のゲームシステムの中で正常に動作させるのは、実は結構難しい。
 剣や槍、斧といった類の物なら同じ系統の武具のデータを何箇所か書き換えるだけで済むし、他のRPGと同様【cubic world】でもシナリオの進め方次第でアイテム改造のアビリティを入手してそれ自体を職業にする事も可能になっている。
 だが、こういった全く未知のタイプとなると話は別だ。
 ゲーム中に設定された重力や空圧に矛盾せず、尚且つ実際の攻撃なり防御なりに有効な性能を持たせるには高度なプログラミング能力が必要になる
 これだけのプログラムを作り、暴走中のシステムにそれを組み込んでしまえるレイの力量はかなりのものだった。
 彼女は、一体何者なんだろう。
 レイの攻撃をかいくぐって来た敵を無造作に斬り倒しつつ、意識はついつい「相棒」の正体に向かってしまう。
 C.S.S.のメンバーで、現在cubic worldの一件に関わっているのは俺だけだ。
 となると、他の部署の人間か、専門職の一般人か。
 ソフトやハードの開発を外部に委託する事はあるけど、今回の仕事は民間人を巻き込むにはちょっと危険過ぎる。それは、他の部署の奴でも似たり寄ったりだ。
 身内が事件に巻き込まれて義侠心に駆られた裏稼業の人間とか、リスクを恐れない怖いもの知らずのオコサマとか、よっぽど後ろ暗い事があって協力するように脅された電脳系の前科持ちとかの線かな?
 なーんて余所事に気を取られつつも、とりあえず目の前の敵はすべて片づけた。
 今のところ最低レベルのゴブリンや昆虫系しか出て来ないから、一戦一戦は楽勝だ。
 そう、楽勝、なんだけど…。
 「…にしたって、エンカウント率高過ぎだろ!?」
 足を止め、膝に両手をついて、乱れた呼吸をどうにか整える。
 何しろ、森に足を踏み入れてからこっち、ずっと戦い通しなのだ。
 せっかくリアルな世界が売りだってのに、周りの景色を愉しむ余裕すらありやしない。
 同じ事を、レイも感じていたのだろう。
 飛刀に結わえた糸を手繰り寄せた手を口許にやって、形の良い眉を顰める。
 「確かに、この状況はちょっと異常かも――」
 彼女が言葉を切ったのと、俺の耳がきりっという微かな音を捉えたのとは、ほぼ同時だった。
 それが弓弦を引き絞る音だという事に思い至った瞬間、目の前を茶色い矢羽が過ぎる。
 咄嗟に身を退く事すら出来なかった。
 一瞬遅れて、矢風に叩かれた頬に灼熱が走る。
 滲み出す血を拭う余裕もなく、俺はレイを振り返った。
 この場に居合わせた人間は2人。俺が狙いじゃないなら、残るはレイしかいない。
 幸いな事に、俺の焦りは杞憂に終わった。
 彼女の背後の木に刺さった矢がバイパーの頭を縫いつけているのを目にして、俺はほっと息を吐く。
 どうやら、とりあえずこちらに敵意を抱いてる相手じゃないらしい。
 だからといって簡単に気を許す訳にもいかないから、一応剣を手にしたままで相手の出方を伺う事にした。
 待つほどもなく、耳に心地良い、けれど感情の篭らない声と共に、木々の間から1人の若者が姿を現す。
 「魔物が増えているのは、森が荒れている為だ」
 手にはとねりこ製のショートボウ、背にした矢筒には鷹の羽根を用いた矢、腰には大きめのハンティングナイフ。
 ほっそりとした体つきに先の尖った耳を持ち、草の上を足音ひとつ立てずに歩く彼は、エルフの戦士だった。
 ベージュのシャツとズボンの上から立て襟で袖なしのアイヴィ・グリーンの上着を纏い、更に弓を持つ腕の保護と弦に拠る負傷からの防御の為に左半身のみのジャケットのような一風変わった革製の胸当てを身につけている。
 アームガードと脛当ても同じくなめした革を使っていて、その何れもスノードロップを模した金の箔押しの装飾が施されている、実戦的でありながら優美さを損なわないエルフの一族らしい逸品だった。
 だが、そういった華やかで雅な雰囲気よりも、彼自身の纏う研ぎ澄まされた刃物のような気配の方が勝る。
 襟足の一筋だけを残して短く刈り込んだアッシュブロンドというのも、その印象に拍車をかけているのかもしれない。
 残った一房の髪には色とりどりの貴石が飾られていてそれはそれで綺麗だったけど、エルフといえばさらさらロングヘアっていうイメージを抱いてる俺にしてみれば、彼の姿はちょっと意外だった。
 そんな事もあってまじまじと観察モードに入っていた俺の視線の意味をどう取ったのか、エルフの青年は言葉少なに己の名を告げる。
 「我が名はガランサス、森の守護を務める者」
 ガランサス、と名乗った彼は、そのまま俺とレイの間を過ぎ、先程仕留めた獲物の前まで歩を進めた。
 そうして、深々と幹に突き刺さった矢を片手で引き抜いて、振り向きざまに冷たくこう言い放つ。
 「人間の子よ、意味もなくエルフの森に立ち入るな」