ニヴェウス
―虚ろなる神の居城―


 甘やかな花の香が漂っている――。
 頭の芯が痺れるほどに濃厚で蠱惑的な香りに刺激されて、意識が浮上する。
 頬を撫でる柔らかな微風と温かな陽射し。小鳥の囀り。
 次第に研ぎ澄まされていく感覚に導かれるままゆっくりと瞼を上げた俺は、そのままぱちくりと瞬きを数度繰り返した。
 目の前に広がっているのは、夢のようにキレイで何とも長閑な風景だった。
 ヨーロッパの古城を思わせる白いお屋敷を背景に緩やかな丘陵地帯になった緑の原を小川が横切り、所々に大きく枝葉を広げた木々が点在していて、たわわに実をつけている。
 生垣で迷路を作っちゃうような形式ばった西欧式の庭園じゃなくて、自然の風合いを活かした花と緑の苑、といったところだ。
 芝生を渡る風が運ぶ微かな草いきれや質感さえ感じられるようなぽかぽかとした陽気に触れる事で改めて【cubic world】の仮想現実が持つリアリティを堪能しながら、俺はちょっと拍子抜けしていた。
 一応ココは【cubic world】のラストステージなわけで、普通ラストステージって言ったら、もっとこう、おどろおどろしい雰囲気のダンジョンとか危機感溢れる要塞とか、そーゆーのを思い浮かべるもんじゃないだろうか?
 当然俺もそれなりの心構えで、覚悟を決めて来たつもりだ。
 それなのに、こんなに穏やかな…気の抜けるような景色に出迎えられるとは。
 これじゃまるで、ラスボス戦をすっ飛ばしていきなりめでたしめでたしのエンディングに来ちゃったみたいだ。
 まぁ、こんな所でぼぉっとしててもしょうがないから、とりあえずはソレっぽい雰囲気の城を目指す事にする。
 石畳って程人工的にならないように芝生の上にそれとなく置かれた表面の平らな敷石が示す小道を辿る道すがら、俺は何気ない風を装って辺りを一望してみた。
 どうやら、此処も一応無人の地ではないらしい。
 小川に足を浸して水辺で笑いさざめく少年達、色とりどりの花の咲き乱れる草原で思い思いに花冠を編む乙女の一群、木陰で涼を取りつつ楽しげに語らう年嵩の男女のそばを、子供達が甲高い声を上げながら裸足で駆けて行く。
 その平和な光景は、景観そのものの醸し出す和やかさと相俟って訪れる者の精神に安らぎを齎す。
 天国とか極楽浄土とか約束の地とか、とにかくいかにもって感じのステレオタイプでお手軽な楽園が演出されてるってわけだ。
 秘められた作意に気づいてしまえば、自然といろいろと粗も目につくようになる。
 まず、乳幼児や一定の年齢以上の老人がいない。
 何らかの職務についてると思しき人間もいなければ、生活に欠かせない日常品を扱う店も存在しない。
 もちろん、偶々今いる場所が生活感とは無縁な公園みたいな空間だってだけで、近くに別に集落があるって可能性もないではない、けど。
 たぶん、このステージは人の住む町を意識した物じゃないんだと思う。
 在るのは、白い城と楽園を意識した庭園のみ。
 そうやっていろいろ観察していくうちに、あるひとつの考えに突き当たった。
 これはあくまで俺の推測に過ぎないけど、此処にいるのは順調にゲームを進めて【白】のステージまで辿り着いたプレイヤーなんじゃないだろうか。
 システムの暴走を知らず、純粋にゲームをプレイしてこのラストステージにやって来た彼等が、此処で罠にはめられてしまったのだとしたら。
 餓えも戦いもない至福の国の一員となる事、それが目指す終着点であったかのように洗脳された彼等は、いつまでもこの地に留まり続ける。
 それこそが最大の目的であったかのように思い込み、現状に満足して、飼い殺しにされて…。
 何も知らずに幸せそうに微笑む彼等の姿は、かえって俺の心を寒くした。
 俺は、何としてもこのゲームをクリアしなきゃいけない。
 cubic worldに囚われたすべてのプレイヤーを救う為、なんてコトを言うつもりはない。
 ただ、これまで犠牲にしてきた人達、それから何より俺を導き、俺の精神を護り、俺に後を託して戦列を離れたレイに応える為に、俺は必ずこの手でこのイカレたゲームにケリをつけたい。
 緑豊かな丘の向こうに、白い城壁が間近に迫る。
 弱気になりかけた自分を奮い立たせて、俺は真っ向から城門を睨みつけた。