アクィラス
―古の魔導王国―


 直前まで命を持って動いていた土塊にはもはや一瞥すら与える事なく、零姫は王の間の扉に手をかける。
 彼女の背丈の何倍もの高さを持つ重厚な扉は、意外な軽さで内側へと開いた。
 俺は、零姫の背後で息を詰めて扉が開ききる瞬間を待つ。
 最初に目に入ったのは、白い光の中に浮かび上がる黒曜石の玉座だった。
 玉座を囲むように、王国の守護を祈願する魔法文字を彫り込んだ石柱と代々の王の姿を映した石像が円形の室内に交互に立ち並んでいる。
 その何れもが黒い石造りという徹底的に彩りの死に絶えた空間で、唯一四方に配された明り取りの窓――俺の感覚が狂ってなきゃ此処は地下深くで、だから実際には窓って言うより何らかの魔法で作用する照明なんだろうけど――に嵌められた地風水火を象る色硝子越しの光だけが、それぞれの色彩を帯びて闇を切り裂いていた。
 この4色の光が玉座の上で交差し、眩しいほどの白光を生み出しているのだ。
 主を喪った空の玉座には王冠が、こればかりはさすがに白銀の輝きを放っている。
 「零姫」
 膝を折り、畏敬の念を表す俺の前を悠々と横切って、零姫は一段高い場所にある玉座に歩を進めた。
 其処だけが眩い光に照らされる中、零姫の手がゆっくりと王冠に伸びる。
 零姫は、王冠を頭上に戴く事はしなかった。
 代わりに、懐かしむように、愛惜しむように、王冠の表面に指を滑らせる。
 それから、不意にこちらを振り返ると手にしていた何かをこちらに放って遣した。
 「アル」
 「え?あ?」
 アクィラスへの標となった立方体(キューブ)と、続いてもう1つ。
 反射的に受け取ってから、掌の中の「それ」に目を落とす。
 それは、黒い色硝子のような素材の小さな正方形の石版だった。
 そう、立方体(キューブ)に嵌める鍵の石版だ。
 「レ…イ…姫?」
 視線を上げた先、零姫が手にした王冠の正面の装飾部分には、丁度石版と同じくらいの欠落がある。
 次の瞬間、夢から醒めるように俺はすべてを思い出した。
 俺の素性、cubic worldを旅する目的、レイとの関係も。
 アクィラスに着いてから途切れ途切れに蘇っては俺を悩ませていた記憶こそが本物で、現実だと思い込んでた経歴が何者かによって刷り込まれたものなのだって事まではっきり意識する。
 何で、誰がそんなコトを?俺達を排除しようとしたシステムか、それとも…?
 混乱も覚めやらぬままレイに問い質そうと口を開きかけた俺は、目に入った光景に絶句した。
 「な、んだよ、これ…?」
 辛うじて口をついて出た声は、酷く掠れていたんじゃないかと思う。
 レイは、王冠を膝に載せて玉座に腰掛けていた。
 否。玉座に囚われていた。
 闇そのものが物質化した漆黒の触手が、彼女の身体に纏わりつき、その身を絡め取って玉座に縛りつけている。
 ようやく現れた王位を継ぐ者を、けして放さぬとでも言うように。
 「ちゃんと思い出したみたいね」
 驚愕に目を瞠る俺に、僅かに揶揄いを含んだ声音で、レイがそう語りかけてくる。
 前のステージ、スカルラトゥムの、神秘の炎を封じていた洞窟で俺の記憶にちょっとした細工をしたのだと、レイは告げた。
 炎の揺らめく光には幻惑作用があるから、それを利用して催眠暗示をかけた。
 暗示を解くきっかけは、アクィラスの石版を手に入れる事。つまり、【黒】のステージをクリアする事。
 「『cubic world』のシステムが暴走した方向性を考えれば、当然ストーリーへの介入も予測できた。だから、念の為に「レイ」が物語の重要な鍵となるような設定を仕込んでおいたの。あくまで万が一の時の保険のつもりだったけど」
 やっぱり役に立ったわね。
 そう、事も無げに言う彼女の落ち着いた態度に、理解できない苛立ちが募る。
 「だからって、何で」
 不実を責めるように問い詰める俺を遮って、レイは逆にこう問い返してきた。
 「こうなる事を知っていたら、アルは迷うでしょう?」
 …レイの言う事は正しい。
 俺には、レイを人身御供にするような戦術は選べない。
 現に、今この瞬間にさえ俺は逡巡して、次に取るべき行動を見極められずにいるのだ。
 そんな俺の葛藤を見透かしながら、無情にもレイは俺に命令する。
 「石版を立方体(キューブ)に嵌めなさい、アル」
 弾かれたように面を上げる俺を静かな、けれど抗う事を許さない瞳で見つめ返して、彼女は続けた。
 「あなたの務めを果たすんでしょう?」
 俺の務め。
 cubic worldをクリアして、このイカレた世界をぶち壊す事。
 そうして、この世界に囚われてしまったプレイヤー達を救出する事。
 解ってる。躊躇いは許されないって。
 幾つもの犠牲の上に立って、今の俺はこの場にいるのだから…。
 跪いたまま唇を噛み締める俺の背中に、玉座から精一杯伸ばしたレイの両腕が回される。
 羽毛のように柔らかく俺を抱いて、レイは優しく、強く、囁いた。
 「忘れないで。あなたは独りで闘ってるわけじゃない」
 そこまでが限界だったんだろう。レイの身体が玉座に引き戻される。
 カランと乾いた音を立てて彼女の膝から転がり落ちた王冠を拾った俺は、ゆっくりと身体を起こした。
 立ち上がった俺を満足げに見上げるレイの頭上にそっと王冠を載せ、それから1歩、また1歩と後退さる。
 そうして扉の所まで下がりきった俺は、ぎゅっと目を瞑って石版を立方体(キューブ)に宛がった。
 かちり、とパズルの組み上がる音が無慈悲に響く。
 閉じた瞼越しに強い光を感じるまで、俺は再び目を開く事が出来なかった。



 四方を取り囲む壁面も床も白光に飲み込まれた虚空に独り立って、天を振り仰ぐ。
 残るは【白】のステージ唯1つ。
 其処で待つ物が何であれ、もう後には退けないし、退くつもりもない。
 「待ってろよ、レイ」
 必ず、俺が助け出してみせるから。
 天上から降り注ぐ光に包まれ、身体が上昇していくのを感じながら、俺は密かな決意を言葉に乗せて呟いた。