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スカルラトゥム
―氷と炎の秘境―
頭蓋骨を粉砕しかねない勢いで振り下ろされた豪腕の一振りを素早く身を沈める事で躱わしたグレンが、そのまま相手の懐に飛び込んで鳩尾に左の掌底を叩き込む。
衝撃に弾き飛ばされる事なく踏み止まった巨体がそれでも一瞬怯んだ隙を見逃さず、グレンは地面を支点に回転させた戒杖の先を喉許に突き込んだ。
どぉんという音と共に、彼の前に立ちはだかっていた羆の巨体が倒れ込む。
「…凄ぇ…」
俺は、突然猛り狂った羆と遭遇してからの一連の彼の動きを呆気にとられて見守っていた。
邂逅から一夜。
昨夜の吹雪が嘘のように晴れ渡った空の下、陽光にきらめく雪氷は眩ゆいばかりで、ほとんど風も止んでるおかげで日向にいればそれなりに暖かい。
それなのに、俺はグレンの戦いぶりに身震いを抑えられずにいた。
著名な武闘家が素手で熊を倒したなんて話が半ば伝説として残ってたりするけど、彼はその域に達してる。
グレンが手にしているのは樫の木の杖のみ。銃はおろか、刃のついた武器すら持っていない。
けれど、巧みに杖を操る技と年齢を感じさせない卓越した体術に基づく無駄のない攻撃で、彼は呼吸1つ乱さずあっさりと獰猛な羆を倒してのけた。
刃物を用いず、けして派手さはないが的確な立ち回りで戦う彼の姿には、武闘僧という言葉が似合う。
実際、彼のナチュラルでストイックな在り様は聖職者に近いものがあった。
「この辺りも、昨今はだいぶ物騒になってな」
足元に倒れ伏した羆の死体を見下ろして、グレンは僅かに眉を顰める。
「以前は、野の獣が人を襲う事など滅多になかったもんだが」
何らかの悪しき意志が自然を歪めとるような気がしてならん。
そう呟く彼の声には苦渋が滲んでいた。
彼の一族は、古くからこのスカルラトゥムの神秘の炎を宿す山を治めてきた。
神秘の炎を維持するのと神聖な山が荒らされないように監視するのが主な役目らしいけど、この地で生まれ育った彼だけに其処に棲まうものへの愛着も強いんだろう。
そうグレンの心情を慮ったところで、はっとする。
「この地で生まれ育った」だって!?
有り得ない。だって、ココは仮想現実(ヴァーチャル)の世界じゃないか!
昨夜グレンと話していた時にも抱いた違和感が蘇る。
気がつけば、いつの間にかゲームの中の出来事を現実として当たり前のように受け入れてる自分がいて、だんだんそれをオカシイと思う意識が薄れてきてる気がする。
前のステージではマリアのおかげで常に現実(リアル)を意識していられたけど、実は結構【cubic world】に思考が毒され始めてるのかもしれない。
その考えは、心胆寒からしめるのに充分なものだった。
俺は、脳裏に浮かんだイヤな予感をかき消すように頭を振って視線を逃がす。
その途中で、今の戦いでグレンが負傷してる事に気づいた。
羆の爪が掠めたのか、上着の左上腕部分が破けて血が滲んでいる。
傷の深さの割に出血は少なそうだったけど、放っておく訳にはいかない。
動揺して挙動不審に陥ってた俺の様子を窺ってたレイも、視線を追ってそれに気がついたらしい。
簡単な治癒魔法を唱えながらグレンの二の腕に手を伸ばす。
だが、傷に翳されたレイの手を、グレンは思いがけず乱暴に払い除けた。
「触れるな!」
意外な語気の強さに、さすがのレイもびくっと身を竦ませる。
グレンは、自分でもきつい語調になってしまった事に驚いているみたいだった。
「いや、このような掠り傷、わざわざおまえさん達の手を煩わせるほどの事もなかろう」
気まずげな表情でレイから目を逸らすと、手早く裂いた布を傷口に巻きつけていく。
たぶん、戦闘の余韻で気が立ってたんだろう。
剣を手に敵と対峙した時の昂揚した気分に身に覚えのある俺は、グレンの過剰な反応を単純にそう考える。
でも、レイはそうは捉えなかったようだ。
何やら釈然としない面持ちで、グレンの傷に翳した掌を凝視している。
「レイ?」
眉間に皺を寄せた彼女が余りに深刻そうで、心配になった俺は声を潜めてひそひそと問いかけた。
「どうした?何か気になる事でもあるのか?」
俺を見上げるレイの黒瞳が、刹那微かな揺らぎを見せる。
けれど、結局レイは何も言わずに、静かに首を横に振っただけだった。