■第7章■

(3)

 とん、と力なく背中を壁に預けて、サンディは低く呻いた。
 「…「L」は月【LUNA】のL…って事か?」
 誰に向けたわけでもない問いかけに、だが、思わぬ場所から答えが返る。
 『正確には、地球種【Terra Chird】の「T」と月面種【Luna Child】の「L」です』
 聞き覚えのない声に驚いて顔を上げれば、ディスプレイの中≪空の庭≫市の外観図に重なるようにして佇む青年の姿がある。
 「おまえ…!」
 陽光の煌めきを宿す髪、温かな大地の色の肌、深く澄んだ海の碧を湛えた瞳の彼、ダレスは、激するサンディにも臆する事なく落ち着いた様子で口を開いた。
 『私は地球回帰願望喚起プログラム【aquarium】の番人、ダレス』
 「地球回帰願望喚起プログラム?」
 サンディが耳慣れない言葉を鸚鵡返しにする傍で、カイリはリンクに渡した通信機のマイクの音量を上げる。
 これから起こるすべてを、余す事なく彼女達に伝える為に。
 『この日が来るのをずっと待っていました。貴方達が目醒め、真実を手にする日を』
 どこか愛しげに目を細めて、ダレスはそう切り出した。



 「…此処、月の上なんだ…」
 自分でも気づかないうちに、リンクはぽつりとそう呟いていた。
 白い大地の向こうに見える水の惑星。
 「月」を見る度にあれほどの郷愁に駆られながらどうして今までこの景色を思い出さなかったのだろうと不思議に思う。
 これも、カイリの言っていた≪空の庭≫市の管理システムによる洗脳の所為なのだろうか。
 彼女の言葉を耳にした子供達がざわめきはじめるのを、リンクは意識のどこか遠い所で捉える。
 おそらく、『天罰』以降に生まれた子供にはこの景色の意味は解らないだろう。
 ただ、「街の外」への期待を裏切るような殺伐とした風景に失望している筈だ。
 そこに更に追い討ちをかけるように突きつけられた真実は彼等を絶望に導きはしないだろうか?
 感情に取り残された理性がぼんやりと空回りするのに任せていたリンクは、耳元で不意に聞こえた声に我に返った。
 「地球回帰願望喚起プログラム?」
 訝しむようなサンディの声が綴った単語は、還りたいと願い続けたリンクの興味を惹きつける。
 耳をそばだててみると、サンディともカイリとも違う柔らかな男性の声が話を切り出すところだった。
 『この日が来るのをずっと待っていました。貴方達が目醒め、真実を手にする日を』
 その声と同時に、街を覆う透明なドームに≪空の庭≫市の概略とダレスの姿が映し出される。
 ダレスは、リンクには淋しげに見える慈愛に満ちた表情で続けた。
 『≪空の庭≫市は、ふたつの大きな実験要素を抱えた街として造られました。ひとつは、巨大コンピューターによる集中都市管理によって自給自足する独立都市としてのもの。そしてもうひとつが、初の月面都市としてのものです』
 次々と現れるデータに、子供達は声を発する事も忘れて見入っている。
 『実験は、ふたつとも成功しました。≪空の庭≫市は学園都市として動き出す筈でした』
 だが、たったひとつの隕石が人類の未来を狂わせた。
 『『天罰』が起きた当時、この街にいたのは僅かばかりのスタッフと世界中から集められた子供達だけでした。子供達の家族は、後から来る予定だったのです』
 予定を果たせず仕舞いになった親達は運命を呪ったろうか。それとも、子供達の幸運を感謝したろうか。
 「地上に残った人間をこの街に収容する事はできなかったのか?!」
 通信機から、激昂したサンディの声が漏れ聞こえる。
 ダレスが悪いわけではないと解っていても誰かを責めずに入られない、そんな遣る瀬無さが伝わる口調に、ダレスは微かに瞼を伏せた。
 『無事な人々だけでも避難させようという意見は当時も出されました』
 答える声は、外壁の何処かにあるスピーカーから流れる。
 『権力や富を持つ者の中には極秘裏に身内だけを逃がそうとした者もいましたし、世界規模でもそうした動きはあったのです。でも、人々は最終的に感染経路も治療法も解らない死に至る病を唯一汚染されなかったこの街に持ち込む事はできないという判断を下しました』
 それは、とかく我執に駆られがちな人類という種が罪深いばかりではない事を示す英断だった。
 『結果として、≪空の庭≫市は現代の箱舟になりました。幸運にも教育の機会の均等化と適性の検査を兼ねて多くの国と地域から人種の枠を越えて様々な民族の子供が集められていましたし、何よりこの街は外部との接触を絶たれても都市としての機能を保ち得ましたから』
 そこからは、≪空の庭≫市の市民なら誰でも知っている昔話へと移行するわけだ。
 だが、ダレスの語る物語はそれで終わりではなかった。
 『大人達は、遺された子供達に真実を告げる事を躊躇いました。肉親を、友人を喪っただけでも充分ショックを受けるであろう子供達が、還る場所さえ失くした事を知れば絶望に押し潰されてしまうのではないかと考えたのです。幸い、子供達は冷凍睡眠状態で≪空の庭≫市に連れて来られていた為、『天罰』の全容を知りません。苦悩の末、彼等は子供達の記憶に手を加えてもこの街が月面都市であるという事実を伏せる道を選びました。冷凍睡眠から覚醒させる際に「現実」への適応を早める為と称して彼等の作り出した偽りの「史実」を常識として植えつけ、更に日常の中でもそれを繰り返し刷り込んでいったのです』
 ホームセキュリティが毎朝毎朝繰り返すメッセージにはそんな意味合いがあったのかとリンクは思う。
 まるで洗脳されているようだと感じたのはあながち間違いではなかったらしい。
 『年嵩の子供達の中には、最初の内違和感を覚える者もありました。でも、周りの人間が与えられた情報を当たり前のように受け入れているのを見ているうちに感覚は摩滅し、いつしか日常に慣れていったのです』
 そうして、真実を知る者は≪空の庭≫市に取り残された僅かなスタッフ――Xナンバーと呼ばれる人物達のみとなった。
 時と共に彼等は年老いて死んでいき、真実もまた忘れ去られる筈だった。
 「けれど、忘却を良しとしない向きもあった」
 凛としたカイリの声が、茫然としていた子供達の意識を現実へと引き戻す。
 『そう』
 ダレスは、カイリの言葉を否定する事なく頷いた。
 『そうして生まれたのがプログラム【aquarium】です』


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