■第3章■
(1)
レポートに集中できないままパソコンに向かっていたリンクは、ふっとモニターから顔を上げた。
誰かに呼ばれたような気がして、ぼんやりと視線を泳がせる。
当然1人きりの部屋に誰かがいる筈もなく、リンクは少し疲れたような面持ちで机に向き直った。
すると、広げた資料やメモに混じって、借りて来たばかりのディスクが置いてあるのが目に留まる。
深い海の底から澄んだ水を通して太陽を見上げる構図のジャケット写真に型押しされた「Oceans」の文字。IMAGEの『Oceans』シリーズの新作ディスクだ。
本当は、課題の目途がつくまで見るのは我慢するつもりだったのだけれど、意識してしまうとやっぱり気になってしまう。
『Oceans』で描かれている海は、けして綺麗なばかりではない。
珊瑚礁の碧の海や流氷の浮かぶ北の海のように美しい風景ももちろんあるけれど、雷光の下で荒れ狂う怒涛や重く垂れ込める暗雲に閉ざされた灰色の海面、何万年もかけて岸壁を削り続ける波涛といった風に自然の厳しさをモチーフにしたものも多かった。
それだけに、そこにある景色はリアルで、見る者の心をより強く魅了する。
おそらく、このシリーズの作者は本物の海を知っている人間、『天罰』以前に生まれた子供なのだろう。
同じように今はもう失われてしまった世界を知るリンクが惹かれるのも、きっとその所為に違いない。
――こんな気分のまま頑張ってみても、今日はもうこれ以上はかどりそうにないから。
そう自分に言い訳して、リンクはそれまでの作業内容を保存してパソコンの電源を切った。
パジャマに着替え、ディスクをプレイヤーにセットして部屋の灯りを落とす。
そのままベッドに潜り込み、ダウンケットを頭から被ってからリモコンのスイッチを入れた。
その夜、リンクは久しぶりに夢を見た。
潮の香りの風が、遠く鳥の声を運んで来る。
白い壁の続く街並み、石畳の舗道に落ちる風車の影――懐かしい景色に、リンクは目を細めた。
リンクが生まれ育ったのは、海のそばの小さな田舎町だった。
名の知れた観光地というわけでもなければ交易が盛んな港湾都市というわけでもなかったけれど、穏やかな気候に恵まれた住みやすい町だったと思う。
リンクの住んでいた家の窓からは、潮風を利用した風力発電所の風車と緑の木々に囲まれた入り江が見えた。
≪空の庭≫市に移住する為に冷凍睡眠に就いたのが3歳の時だったから、それ以前の記憶はそれほど残っていない。
それでも、両親に手を曳かれて波打ち際を散歩したり、綺麗な貝殻を集めたり、砂のお城を作ったりした事は何故か鮮明に思い出す事ができる。
飽きもせずに波と追いかけっこを繰り返す幼い頃の自分を、リンクは優しい気持ちで眺める。
彼女は、自分を見守る温かな眼差しに気づいていた。
長い髪が風に舞うのを片手で押さえて背後を振り返る。
その視線の先には、太陽の光に金色の髪を輝かせ、海の色をした瞳に穏やかな笑みを湛えて佇む褐色の肌をした青年の姿があった。
さああああああああ。
――雨?…ううん、これは波の音。だって、ほら、世界がこんなに青いもの…。
半ば夢見心地のまま、リンクはつらつらとそんな事を思う。
だが、重い瞼を持ち上げると、其処は見慣れた自分の部屋だった。
ディスプレイの仄かな光が、白い壁を蒼く照らしている。
――ディスク、つけっ放しで寝ちゃったんだ。
潮騒に聞こえたのは、消し忘れたTVの音だったらしい。
時計の針は、午前3時を示している。目を覚ますのには、まだ少し早い。
リンクは、もう1度眠り直す事にした。
今度はきちんとTVを消して、再びダウンケットを肩まで引き上げる。
――また、海の夢が見られたら良いな…。
祈るようにそう願いながら、リンクは静かに瞳を閉じた。