■第1章■
(3)
朝、起きてまずパソコンを立ち上げるのがカイリの日課だった。
ホームセキュリティシステムから独立した携帯型のマシンは、彼の活動に欠かせない存在なのだ。
起動するのを待つ間に、キッチンに行ってスープを温める。
この手の家事全般は、放っておけばホームセキュリティシステムが面倒を見てくれるのだが、カイリは緊急時以外、こちらから働きかけがあった場合を除いて最低限の保守管理機能のみを実行するようにシステムそのものを改造してしまっていた。
毎朝ご大層な演説を聞かされるのも、やたらと干渉されるのも、彼にとっては不愉快でしかない。
もちろん違法行為だが、故障という事にすればどうにでもなるだろう。
部屋に戻って机の前に座ると、画面の片隅に呼び出しを告げる表示が出ていた。
認識信号から発信者を特定したカイリは、相手の待つチャットルームにログインする。
ディスプレイにピンクと白の市松模様というメルヘンチックな背景が現れた。
その上を転がる時計を追いかけて白兎が走り回っている。
黒いベストにご丁寧に真っ赤な蝶ネクタイまで締めた直立二足歩行の白兎は、画面を一周したところでぴたりと足を止めた。
「おや?お客さまでしたか」
長い耳をゆらゆら揺らして、兎はカイリの方に向き直る。
「ハートの女王に御用ですかな?それともいかれ帽子屋と商談を?」
カイリは、にこやかに合言葉を告げた。
「いいや、三月兎のお茶会に、アリスに会いに」
「さようでございますか。それでは、こちらの扉からお入りくださいませ」
「どうぞごゆっくり」と丁重にお辞儀をして、白兎は姿を消す。
代わりに、栗色の髪をショートボブにした10歳前後の女の子が顔を出した。
「おはよう、アリス」
画面に向かって微笑みかけたカイリに、少女は勢い込んで口を開く。
「おはよう!カイリ。グッドニュースよ!マムが街の地図のデータベースにアクセスしたわ!」
興奮気味の少女とは対象的に、カイリは冷静に独り言を漏らした。
「…サンディ、上手くやったんだ」
カイリは、≪空の庭≫市専属の技術者である年上の友人に「叡智の塔」に行って地図を貰ってくるように頼んでいた。
地図をプリントアウトするには、データベースにアクセスせざるを得ない。
機密扱いの情報をダウンロードするのには、なんとかしてその情報を呼び出す必要があった。
「実際に落とせたのは地下道とケーブルの配置図面だから、どこまで役に立つかは解らないけど…」
「街の全体像が掴めれば充分だよ。後は、こっちのデータと照合していけば良い」
後半はすまなそうに上目遣いで口篭もるアリスを安心させるように、カイリはそう請け負ってみせる。
「それより、あんまり無理はしちゃダメだよ。もしマザーコンピューターに違法侵入した事がばれたらアリスが制約を受ける事になっちゃうからね」
「あら、それなら大丈夫よ」
アリスは、それまでのしおらしさから一転して、ませた口調で応えた。
「これでも、情報屋としては一流なのよ?ハッキングくらいお手の物だわ」
あまり自慢にはならない事を誇らしげに告げるアリスに苦笑して、カイリは簡単な挨拶の後で通信を切った。
癖のある黒髪を物憂げにかき上げ、挑発的な視線をディスプレイに据える。
「さて、次はどうしようか」
不敵な呟きは、深海の光景を模した映像に溶け込むようにして佇む褐色の膚の青年に向けて発せられたようにも見えた。