■第1章■
(2)
「叡智の塔」と呼ばれるその建物は、≪空の庭≫市の都市管理機能を掌るマザーコンピューターを擁している。
芸のない事に――或いは、都市を護る「母親」をイメージしたのかもしれないが――「マザー」と名づけられた巨大な電子頭脳に直接アクセスできる唯一の場所が、この塔だった。
もっとも、日常生活する上で必要な情報は各家庭への設置が義務付けられているホームセキュリティシステムから得られる為、市民による利用頻度はかなり低い。
実際に此処を訪れるのは、より高度かつ専門的な知識を求める研究者か都市機能の維持に関わる職業に就いている技術者くらいのものだ。
サンディは、「叡智の塔」の数少ない常連客の1人だった。
正面の扉をくぐり、エントランスホールへと足を踏み入れた彼は、慣れた様子で歩を進める。
ぴかぴかに磨き上げられた床の上でライトが点滅し、サンディが丁度ホールの中央に差し掛かったところで、天井から硬質な音声が流れ出した。
『「叡智の塔」へようこそ』
言葉とは裏腹にちっとも歓迎の意の感じられない威圧的な調子で、声はこう続ける。
『入場資格のチェックを行います。まっすぐ前を向いて識別装置に右手を乗せ、氏名及び市民コードを述べてください』
サンディは、促されるままに床からせり出してきた台の上に手を置いて口を開いた。
「アレクサンダー=レイク。市民コードM904008AL」
淀みない返答を受けて、警備システムが慌ただしく反応する。
数秒後、ホールの壁がスライドしてエレベーターが現れた。
『市民コード照合…声紋チェック・クリア、指紋チェック・クリア、網膜チェック・クリア…コード9・特殊技能職従事者と確認。C区域までの入場を許可します』
A区域はエントランスホール、B区域は最上階にある一般市民の為の謁見の間、そしてC区域は≪空の庭≫市の機密に関わるシステムの中枢部で「叡智の塔」の地下にある。
サンディは、迷う事なくエレベーターに乗り込んだ。
急速に下降し始めたエレベーターの中で、サンディは一回り年下の友人とのやり取りを思い出す。
「何だってコンピューターから情報引き出すのにわざわざ塔の天辺まで行かなきゃなんねぇんだと思う?」
「それは、ナントカと煙とエライ人は高い所が好きだって昔から相場が決まってるからじゃない?」
やや皮肉屋のきらいがある彼の理屈でいくと、マザーコンピューターの中枢部がこんな風に地底深くに隠されているのは何か疚しい事があるから、という事になる。
色を抜いた茶金髪をカラーゴムで無造作に束ね、スポーツ選手並に頑丈そうな身体つきで着ている物はTシャツ・ジーンズという身なりからはとても想像がつかないが、サンディはこれでも≪空の庭≫市の運営に関わる仕事を請け負う専属のエンジニアである。
その彼をしても、この建物の何処かにD区域だのE区域だのがないとは言い切れないから、友人の台詞もあながち穿ち過ぎとは言えないのかもしれない。
我ながら随分と毒されたものだと内心苦笑しているうちに、目的のフロアに到着した。
エレベーターのドアが開くと、目の前は左右に幾つも扉の並ぶ通路になっている。
「食糧」「医療」「教育」「保安」等の文字が並ぶ扉の中から、サンディは「都市計画」と書かれた扉を選んで手を掛けた。
指先が触れただけで扉は簡単に開き、訪問者を招き入れる。
サンディが入室すると、壁一面を埋め尽くす大小様々なパネルが明滅する室内に照明が灯り、入口の正面に設置されたディスプレイに30代前半と思しき女性のバストショットが映し出された。
『おはようアレクサンダー。今日はどういったご用かしら?』
マザーコンピューターのグラフィックイメージである女性が嫣然と微笑む姿は、「母親」の印象からは程遠い。
サンディは、いつもながらの感想を人好きのする笑顔に隠して愛想良く答えた。
「ハイ、マム。明日から取り掛かる地下ケーブルの検査用の地図を貰っとこうと思って」
『そう。随分と仕事熱心なのね』
くすくすと笑う気配がして、サンディの手許に数枚の地図がプリントアウトされる。
そのうちの1枚を手にとって眺めながら、サンディは何気ないふりでこんな事を呟いた。
「用がある度にいちいち地図出してもらうの、面倒だよなぁ。どうせなら市内全域カバーしたのがあれば良いのに」
独り言に近いそれに、マザーコンピューターは律儀にも幼児を諭す慈母のような口調で応じる。
『保安上の理由から≪空の庭≫市全域を記した地図は作られていないの。アレクサンダーもそれは知っているでしょう?それに、市内にはオートロードやナビゲーションシステムがあるから、地図なんて必要がないもの。貴方には不便かもしれないけれど我慢してね』
「解ってるよ、マム」
軽く肩を竦めて聞き分けの良い返事をしたサンディは、心の中でちぇっと舌打ちした。