■第1章■

(1)

 壁の奥で、かちりと歯車の噛み合う音がする。
 続いて、スピーカーから流れる鳥の声。
 機械仕掛けのドールハウスが動き出す。
 『おはよう、リンク。午前6時、起床時間です。シャワールームの準備が整っています』
 人の耳に最も心地良い波長に合成された女性の声に促されるまま、リンクは気だるい動きでベッドを抜け出した。
 ――今日も夢を見なかった。
 起き抜けのぼんやりとした頭で、そんな事を考える。
 ――もうどれくらい、夢を見ていないだろう。
 物思いに耽る彼女の耳に、ホームセキュリティシステムの話す言葉が聞こえてくる。
 『此処、≪空の庭≫市は、人類に残された最後の都市です。市民の皆さんは、人類の代表としての誇りと自覚を持って生活する義務を有します』
 毎日毎日、繰り返されるメッセージ。
 まるで、洗脳でもされているようでうんざりする。
 今から約半世紀前、当時アフリカ大陸と呼ばれていた場所に巨大隕石が落下した。
 其処には広大な森林があって、そのほとんどが隕石が大気圏に突入した時に生じた熱で燃えてしまった。
 暖められた空気は、膨大な量の粉塵と灰と、それから未知のウイルスを上空へと舞い上げた。
 隕石衝突の余波によって生じた地殻変動。
 太陽の光が遮られ、急激に気温が低下した為に起こった深刻な食糧不足。
 光合成ができずに枯れていった木々や海藻類。
 そして、高い致死率を誇る疾病が、人類に致命的なダメージを与えた。
 ≪空の庭≫市が、後の人々によって『天罰』と呼ばれるようになった一連のこの事象を逃れたのは、この街が完全に外界から隔離されていたからに他ならない。
 マザーコンピューターによる集中的な都市管理の実験の為に造られたこの街は、食糧や酸素、水、エネルギーなどを完全に自給自足できる施設を持つ独立都市として設計されていた。
 外部との接触が絶たれても、単独で生活を維持できるだけの機能が整っていたのだ。
 更に、≪空の庭≫市にはもうひとつ、「学園都市」という役割も与えられていた。
 『天罰』が起こった時、この街には世界中から0歳から15歳までの子供が男女各300人ずつ、冷凍睡眠状態で集められていたのだ。
 結果的に、≪空の庭≫市は現代の方舟となった。
 これが、≪空の庭≫市民が生まれた時から聞かされ続けてきた「史実」だ。
 既に決定した過去を繰り返し人々に語る事にどんな意味があるのか、リンクには解らない。
 そんな事をしても、何も変わりはしないのに。
 湯気に包まれたバスルームで、リンクは鏡に自分の姿を映し出す。
 腰まで届く緩やかに波打つプラチナブロンドに包まれた細い肢体。
 物憂げな氷翠色の瞳。
 蒼白な頬には、微かに涙の跡が残っている。
 冷たい鏡面にそっと手を伸ばせば、もう一人の自分が縋るような眼差しを返す。
 「何を哀しむの?」
 震える唇が紡ぐ声は、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しい。
 「何を求めているの?」
 キッチンで、お湯の沸く音がしている。
 10分後には、いつも通りトーストの香りが食卓を満たすのだろう。
 繰り返される日常。変わり映えのない毎日。
 「帰る場所なんて何処にもないのに」
 応えのない問いは、狭い空間に虚ろに響く。
 「何も、変わりはしないのに…そうでしょう?」
 雲って見えない鏡の向こうから、碧い瞳がリンクをじっと見つめていた。


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