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 アイゼン浅瀬の戦い【1】


 サルマンによるローハン征服を容易でなくさせていた最大の障害は、セオドレドとエオメルだった。
 彼等は頑強な男達で、王を敬愛しており、王の1人息子と甥として最も愛されていた。
 更に、彼等は王の健康が衰え始めた時、グリマが王に及ぼす影響を出来る限り妨げようとした。
 第3紀3014年初頭、セオデン66歳の時の出来事である。
 ロヒアリムが平均して80歳前後まで生きるとはいえ、彼の病の原因は老いによる自然なものだったかもしれない。
 だが、おそらくはグリマの投与した気づかぬうちに作用する毒によって引き起こされたか増進させられたのだろう。
 ともかく、セオデンの怯懦とグリマへの依存の大部分は、この邪悪な相談役の狡猾さと暗示の業によるものだった。
 セオデンに主だった敵対者への疑惑を持たせ、可能であればその人物達を排除するというのがグリマのやり方だった。
 彼等が争えない事は明確だった。
 「病」を得る前のセオデンは全ての民と血族から大変愛されていたし、セオドレドとエオメルの彼に対する忠誠は彼の耄碌がはっきりしていても依然として不動のものだったのだ。
 しかも、エオメルは野心のある男ではなかったし、(13歳年上の)セオドレドへの敬愛さえ養父への愛に勝るものではなかった。
 それ故、グリマは、エオメルは己の権限の増強を熱望し、王やその世継ぎに相談も無しに行動していると言ってセオデンの心の中で互いを反発させようと試みた。
 この試みはある程度の成功を収め、遂にはサルマンによるセオドレド殺害の成功という成果をもたらした。



 浅瀬の戦いの真の理由が知られるようになるにつれ、ローハンではサルマンが何としてもセオドレドを抹殺せよという特別な指令を出していた事が明るみに出た。
 最初の戦いに於いて、彼の残忍な戦士達は戦闘中に起きた他のあらゆる出来事を無視してセオドレドと彼の護衛に無謀とも取れる襲撃を仕掛ける事に専念した。
 そうでなければ、ロヒアリムは更に多大な損害を蒙って大敗する結果となっただろう。
 セオドレドが遂に殺害された時、サルマン軍の司令官――明らかに彼自身の指揮下にあった――は、差し当たりその結果に満足したようだった。
 そうして、サルマンは、グリムボルトとエルフヘルムの武勇が彼の遅延の一因を担ったとはいえ、直ちにより多くの兵力を投じて一斉に西の浅瀬への大規模な侵略を続行すべきところをそうせずにおくという明らかに致命的なミスを犯した。
 もし、西の浅瀬への侵略があと5日早く開始されていたなら、エドラスからの援軍はヘルム峡谷に近づく事が出来ず、平原で包囲され制圧されてしまっただろう。
 たとえ、エドラスそのものが攻撃を受けず、ガンダルフの到着以前に虜囚とならなかったとしても。
 グリムボルドとエルフヘルムの武勇はサルマンの遅延の一因となり、彼の破滅を招いたと言われている。
 この事実は、おそらくその重要性に比して過小評価されていると言えるだろう。



 アイゼン川はアイゼンガルドの上方に位置する水源から急速に流れ落ちているが、谷間の平坦な地では西に折れるまで流れは緩やかになる。それから、ゴンドールの外れのエネドワイスの低地の浜辺まで長く傾斜した地域を下る深い急流となる。
 この西への屈折は、位置的に丁度アイゼン浅瀬の上流にあたる。
 此処で川は広く浅くなっており、大きな小島を挟む2つの流れとなって砂利と石に覆われた岩棚の上を北から下っていく。
 アイゼンガルドの南部では、唯一この場所でのみ大軍、殊に重装備であったり馬に乗っていたりする軍勢が川を横切る事が出来た。
 このように、サルマンはアイゼン川のどちら側の岸からも彼の軍勢を送り出して浅瀬を攻撃させる事が出来、どちら側からの攻撃にも耐えられるという利点を得ていた。
 一方、セオドレドは、サルマンの軍と交戦するなり西の拠点を防御するなりに充分な強さを持つ男達を浅瀬を渡って送り出したとしても、彼等が敗れた場合には、敵がすぐ背後に迫り、更に東の川岸で待ち伏せさえされているかもしれない状況で浅瀬を渡って戻る以外退却の術を持たなかった。
 南方、及びアイゼン川沿いの西方には、ゴンドール西部までの長旅に耐え得るだけの補給を受けられるのでもない限り、彼等の帰還する道はなかった。
 サルマンによる攻撃はけして予期し得ぬものではなかったが、その訪れは予想より早かった。
 セオドレドの放った斥候は、アイゼンガルドの門前、アイゼン川の西岸を中心に(そのように見えた)軍隊が召集されていると警告してきた。
 それ故、セオドレドは西の谷から召集した部隊の屈強な歩兵を浅瀬に続く東西の通路に配置した。
 騎兵3部隊を馬の群れと予備の馬と共に東岸に派遣し、彼自身は主軸を成す兵力――騎兵8部隊と弓箭隊を引き連れ、サルマンの軍勢の準備が完全に整う前に力ずくでその行動を阻止すべく浅瀬を渡った。
 だが、サルマンは彼の意図もその軍勢の規模も明らかにしてはいなかった。
 セオドレドが出立した時には、サルマンの軍勢は既に行軍の途に就いていたのだ。
 浅瀬より20マイルほど北に行った地点でセオドレドはサルマン軍の先兵と交戦し、これを撃破した。
 しかし、彼が本隊を叩く為に馬を乗り進めるうちに、敵の抵抗は強固なものになった。
 実は、敵軍は長柄槍兵を配した塹壕の後ろで戦闘に備えた配置についており、ローハンの騎馬部隊を率いていたセオドレドは足止めされ、新たにアイゼンガルドから急行した軍勢に西側から襲撃され、ほぼ完全に包囲される形となった。
 後続の隊の突撃により救出されたセオドレドは、東に目をやって狼狽した。
 その日は薄暗く霧のかかった朝だったが、その霧も今は西からの微風に追われて谷間の向こうへと去り、セオドレドはアイゼン川の遥か東に総勢の推測すら出来ない軍勢が今にも浅瀬へと急行するのを目にしたのだ。
 セオドレドは、直ちに退却を命じた。
 騎兵は充分な機動作戦の訓練を受けており統率も取れていた為、然程大きな犠牲は出さずに済んだ。
 だが、敵を振り切る事も遠く引き離す事も出来なかった為撤退はしばしば遅れがちになり、グリムボルドの率いる後衛部隊は岸辺で敵に向き直って熱心な追跡者達を追い払わざるを得なかった。
 セオドレドが浅瀬に到着した時、日の光は非常に弱々しかった。
 セオドレドはグリムボルドを西岸の守備隊の指揮官とし、50人の馬を失った騎士と共にその場を固めた。
 他の騎兵と全ての馬には、彼自身の部隊を除いて直ちに川を渡らせた。
 残された歩兵は、グリムボルドが敗れた際、その退却を援護すべく小島へと配置した。
 これらは、辛うじて惨劇に間に合う形となった。
 サルマン配下の東軍は、思いがけない速さで押し寄せた。
 この軍勢は西軍より規模こそ小さかったものの、より危険な存在だった。
 彼等の先兵の中には騎乗の褐色人や魔狼に乗った凶悪なオークの大軍・ウルフライダーが含まれていて馬達を怯えさせた。
 その後ろには、重装備ながら迅速に何マイルも移動できるよう訓練された獰猛なウルク=ハイの大軍が2部隊続いていた。
 褐色人とウルフライダーは馬の群れとその見張りに襲い掛かり、彼等を殺害するか蹴散らすかした。
 ウルク=ハイの大軍による突然の襲撃に驚愕した東岸の守備隊は駆逐され、丁度西から渡って来た騎士達は混乱に陥りながらも必死に交戦したものの、ウルク=ハイの追撃によりアイゼン川沿いに浅瀬から退けられた。
 敵軍が浅瀬の東端の領土に達するや否や、鎧を纏い、斧で武装した凶暴な人間とオークの一団(明らかにある目的を持って派遣された者達だ)が現れた。
 彼等は、小島に急行すると両側から襲撃した。
 時を同じくして、西岸のグリムボルドはアイゼン川の西側からサルマン軍の攻撃を受けていた。
 戦闘の音と忌まわしいオーク達の勝利の声に焦って東方を見遣った彼は、斧を手にした男達がセオドレドの兵を小島の岸から中央の小山に追い立てるのを目にし、セオドレドが高らかな声でこう叫ぶのを耳にした。
 「我が許へ集え、エオルの家の子よ!」
 グリムボルドは、直ちに傍にいた数人の男達を引き連れて小島へと駆け戻った。
 丈高く猛き力を持つグリムボルドは攻撃陣の背後から荒々しく突撃し、味方2人と共に小山にある入り江に立つセオドレドの許に辿り着くまで突き進んだ。
 だが、彼の到着は間に合わなかった。
 グリムボルドが彼の傍に駆け寄ったその時、セオドレドは大柄なオークに切り倒され崩れ落ちた。
 グリムボルドはオークを倒すと、セオドレドが死んでしまったものと思ってその身体を見下ろして立ち尽くした。
 この場にエルフヘルムが来なければ、おそらく彼自身も時を置かずして命を落としていただろう。
 エルフヘルムは、セオドレドの召集に応えた4つの部隊を率いてエドラスから伸びる街道に沿って急ぎ馬を駆っていた。
 彼は戦を予期してはいたが、それはまだ幾日か先の事だろうと考えていた。
 しかし、谷間より下る道と街道との交差地点付近で、彼の右側面にいた騎馬従者が平野のあちこちで2組のウルフライダーの姿が見られた旨を報告してきた。
 事態の悪化を察知した彼は、その夜街道を脇に逸れてヘルム峡谷に向かうつもりだったのを取りやめて能う限りのスピードで浅瀬へと馬を走らせた。
 街道は谷間からの道と交わった後北西に向かうが、浅瀬付近の平坦な場所に来ると2マイル余の真直ぐな小道とぶつかって再び西に鋭角に折れる。
 そんな訳で、エルフヘルムは浅瀬の南で退却する守備隊とウルク=ハイとの間で起こった戦いを目にする事も、それらの物音を耳にする事もなかった。
 彼が街道の最後の曲がり角付近に差し掛かる頃には、太陽は沈み明るさは失われつつあった。
 其処で彼は荒々しく駆ける馬達と僅かばかりの逃亡者達に出会い、惨劇を知った。
 彼が従えている兵も馬も今や疲れきっていたが、エルフヘルムは最大限の速さで真直ぐ馬を走らせ、東岸が見えると同時に同胞に突撃を命じた。
 これは、アイゼンガルド側に就いた人々に驚愕と転機をもたらした。
 彼らは蹄の轟きを聞き、後に続く者への導きとなる白い旗印を従えたエルフヘルムを先頭に大いなる軍勢(そのように思えた)が暗い東方に向かってあたかも黒雲の如く走り来たるのを見た。
 その場に居られた者はほとんどなかった。
 大半の者は、エルフヘルムの軍2部隊に追跡され北方へと逃れた。
 一方、東岸を守備すべく馬を下りたエルフヘルムは、自らの配下の者を引き連れ直ちに小島へと急行した。
 斧で武装した男達は、今や生き残った守備隊と未だロヒアリムが維持していた両岸の兵を伴ったエルフヘルムの猛攻撃とに挟撃された。
 彼等は戦い続けたが、1人残らず殺された。
 エルフヘルム自身は、しかし、小山を駆け上った。
 其処で彼は、セオドレドの亡骸を護って斧を持った2人の屈強な男達と戦っているグリムボルドの姿を見出した。
 すぐにエルフヘルムが1人を殺し、残った1人もグリムボルドの前に倒れた。
 その場に屈み込み、亡骸をを持ち上げようとした彼等は、その時セオドレドがまだ息がある事に気づいた。
 だが、それも彼が最期にこう言い遺すまでの事だった。
 「エオメルが来るまで浅瀬を護る為に、我が身をこの地に横たえよ」
 やがて、夜が訪れた。
 耳障りな角笛が鳴り響き、それから辺りは静まり返った。
 西岸の攻撃は途絶え、敵は暗闇の中へと消えて行った。
 ロヒアリムは、浅瀬を護りきった。
 だが、少なからぬ馬と王の嫡子を喪った彼等の損害は甚大だった。
 彼等は導き手とてなく、この後どのような悪しき事が起こるかも解らなかった。
 冷たく眠れぬ夜が明け、灰色の光が戻った時、其処には大地に累々と横たわる死骸以外にアイゼンガルド軍の痕跡は全く残されていなかった。
 狼達は人間が立ち去るのを待ち望んで遠く唸っていた。
 アイゼンガルド軍の突然の襲撃によって散在させられた多くの男達が、ある者は騎馬で、またある者は再び捕まえた馬を牽いて戻り始めた。
 その朝遅くには、黒いウルクの大軍によって川の南方に追いやられたセオドレドの騎兵のほとんどが戦い疲れてはいても整然と帰還した。
 彼等は、一様にこう語った。
 彼等は低い丘の上の台地に来て、其処を防衛する覚悟を決めた。
 アイゼンガルドの攻撃陣の一部を撤退させはしたものの、補給の見込めない南方への退却は最後には望みないものになっていた。
 ウルク=ハイは東方を押し破ろうとする如何なる試みをも退け、褐色人の西軍が待つ敵地へと彼等を追いやろうとしていた。
 だが、騎兵達が攻撃に備える覚悟をした時、真夜中にも拘らず角笛の音が響き渡った。
 その後すぐに、彼等は敵が去った事に気づいた。
 追跡を試みるにも、夜陰をついて斥候を放つにしても、彼等に残された馬は少な過ぎた。
 しばらくして、彼等は慎重に北方への進行を再開したが、妨害に遇う事は全くなかった。
 彼等はウルク=ハイは浅瀬の防御を補強する為に戻ったのだと考え、再び戦場で相見える事を予期していたので、ロヒアリムが浅瀬を支配しているのを見て非常に不思議に思った。
 ウルク=ハイが何処へ去ったのかは、後になってようやく解った。


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