「天の羊」-2-

「お怪我は?」
「無い」
「では、参りましょうか」
宿に向かう途中、ルーファウスは後ろを歩く男を、気配だけで見詰めた。
ーこの男は俺を何だと思ってるんだろうかー
「ルーファウス様、お寒かったでしょう。先にお湯を頂いて下さい」
「んっ」
適当に生返事を返し、ルーファウスは風呂場へ向かう。
湯船に腕を掛け、其処に顎を乗せてぼんやりと曇り硝子を見詰めて居ると、突然誰かの影が過ぎった。
「ルーファウス様。お着替えの方、此方に置かせて頂きます」
「なぁ、ツォン」
ルーファウスの呼び掛けに硝子一枚隔てた場所に居る男が、その動作を止める。
「何でしょう?」
「お前は何だ?」
「………。…はっ?」
無理も無い返事にルーファウスが勢い良く湯船から立ち上がる。
「お前は私の何だ?」
「…彼方は副社長で、私は一介の部下です」
その返事にルーファウスは、胸が痛んだ。
ーこの痛みは何?ー
「…ルーファウス様。お食事の用意が出来たそうです。では、私はこれで…」
ぱたぱたと音を立てそうな位に、水滴が滴り落ちる。
とくん、とくんと響く鼓動を、ルーファウスは無理やり、上せた所為だと片付けようとした。

食事も終わり、各々眠るだけと言った時間に、ツォンはさっと湯浴みを済ませた。
部屋に戻り、煙草を銜えながら、氷の入ったブランデーを窓辺へと運ぶ。
「…一面の星空だな」
窓辺に腰掛け、ゆっくりと煙を燻らせながら、グラスを口へと近付ける。
コンコンと誰かが戸を叩いた。
「鍵は開いてる」
無愛想に答えたツォンは、静かに開いた扉から覗いた人物に一瞬恐縮した。
「失礼致しました。まさかルーファウス様とは…」
「いや、構わない。…今良いか?」
「結構です。どうぞ」
グラスをテーブルに置き、慌てて煙草を揉み消そうとするツォンをルーファウスが止める。
「消さなくても良い。お前が煙草を吸う所なんて、初めて見た」
後ろ手にこっそりと部屋の鍵を締め、ルーファウスはツォンに近付いた。
「彼方のお側では一切吸わない様にして居ります」
「何故だ?」
「煙草を吸いながら話すのは失礼ですから…」
「ふぅ…ん。なぁ、ツォン」
ツォンの前を通り過ぎ、窓枠に手を掛けて夜空を見上げたルーファウスは、その儘の体勢で呼び掛けた。
「はい」
「私の…、いや、…俺の何だ?お前は」
「申し上げました通り、部下ですが?」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、ツォンは首を傾げた。
「そうだけど、違う。俺が聞いてるのは…、そうじゃ無いんだ。何て言ったら良いか、分か…」
ふと振り返ったルーファウスは、思わず途中で言葉を切る。
長い、少し湿った艶やかな黒髪を掻き揚げるツォンが、シャツの開けた部分から覗く胸が、如何仕様も無く『良い物』に見えた。ブランデーに口付ける『良い物』が、ルーファウスは無性に欲しくなった。
「…分かった、かも知れない」
ブランデーを取り上げ、テーブルの上に置くと、ルーファウスはツォンに手を延ばした。
「ツォン、瞳を瞑って見て…」
言われた通りにツォンが瞳を閉じると、ルーファウスは恐る恐る唇を近付けた。
キスと呼ぶには烏滸がましい、掠る程度の口付けにツォンは驚き、瞳を開ける。
其処には月の光に映し出された『極上品』が瞳を閉じ、側に居た。
「なっ…」
二の句が告げないで居るツォンに、今にも泣き出しそうな『極上品』が、首を傾げる。
「…嫌?」
嫌だなどと言う事が有るものか。
「何故…?」
「この感情が何か分からない。でも、ツォンが欲しいと思った。駄目?ツォンは俺が嫌い?部下だから側に居る?」
小さな子供の様にツォンに問い掛けるルーファウスを、ツォンは愛しいと思った。
「…私は、出会った当時から、彼方が欲しかった。しかし口にすると、部下としてですら側に居られなくなる」
「ツォン」
少し背伸びをする加減で、唇を近付ける。
サラサラと優し気な手が黄金の髪を撫で、無意識の内に腰に手が回された。
「本当に良いんですか?」
キスをすると止める事が出来ない。
「良い。俺をツォンの…、ツォンだけのものにして…」


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