運命の流れが一巡りした時
〜グロールフィンデル〜
恋 人-25-

 ロスロリアンの宴以来、レゴラスの姿を見ていない。
 私の腕の中では、燃える鉄の様な彼も、普段は相変わらず、冬の早朝の空気の様なのだろう。
 私は穏やかに、遥か彼方に住まう愛しき人に想いを馳せる。
「緑葉の君の美しさに」
 そう言ってグラスを掲げ、ハルディアのグラスと合わせた。
 私はワインを一気に飲み干す。
「では…」
 空になったグラスを手に、私は外へ出た。
 月が赤く染まり、それが波乱を予感しているように見えた。



 世の中は暗黒の影が濃くなり、混沌とし始めていた。
 闇の森に住まうレゴラスも例外ではなく、エルフの王国に迫り来る脅威を退けるべく、戦いに赴いていた。
 それ故、彼がイムラドリスに来る事は、めっきり無くなってしまった。
 彼と共に戦えぬ我が身を悔やむ。再び大切な人を無くしてしまうのではないか、という不安が私を苛んでいた。彼に送る手紙の内容も、愛の詩(うた)から、身を案じるものに変わっていた。
 そんな中、イムラドリスに新たなドゥネダインの跡継ぎがやって来た。
 その跡継ぎはまだほんの赤ん坊の様で、母親と共に保護されたのだった。
 代々の族長は、ここで成人するまで育てられていたから、今更驚く程の話ではないが、本当に人の子の成長は早い。
 幼さと時節柄、身分を隠す為に、裂け谷の主に“エステル”いう名を贈られた赤ん坊は、十年足らずで少年へと成長して行った。
「グロールフィンデル! 遅くなりました、申し訳ありません」
「大丈夫ですよ、エステル」
 そして私は今、この幼き未来の人間の王の教育係として、言語や歴史、様々な事を教えていた。
 エステルは息を切らしながら、教科書をテーブルの上に置くと、私の隣りに据わった。
「――弓の練習はどうですか?」
 私は侍女が新しく煎れ直してくれた紅茶に口を付ける。
 安らぎを与える香りが心地良い。
「うーん。なかなか的に当たらないんです。どうしたら上手くなるのでしょう?

 居心地が悪そうに、上目遣いでこちらをチラリと見る。
「いつも言っているでしょう。最初から上手に出来る人など居ませんよ。私だって、最初から『金華の武人』と呼ばれていた訳ではありませんから」
 私は微笑み、彼を励ます様に、肩を軽く叩いた。
「でも今度、僕に弓を教えてくれる人が来てくれるんです!」
 エステルはパッと夏の花の様に笑った。
「へぇ…それは」
 何気無く返事を返し始めたが、ここまで言い掛けて、はたと気付く。その人物とは…?
「――良かった…」
 まさか…我が愛しの緑葉か。
 以前、レゴラスはエスガロスの人間に、弓を教えていると言っていた。だが今迄、一度もここへ教えに来た事は無かったのだ。
「父上が闇の森に手紙を出して下さったんです!」
 エステルは、教科書の栞が挟んである箇所を開いた。
 レゴラスがここへやって来る…。
 喜ぶべき事なのに、何故か私の心は、穏やかな海に風が吹き、波立つ様にざわめいた。
「今日はベレンとルシアンのお話でしたよね?」
 エステルの問い掛けに、我に返る。
「あぁ、そうですね。では、始めましょうか」
 ベレンとルシアン、エアレンディルとエルウィング。
 エルフと人間…。
 例えば。
 エスガロスの人間と親しくしているレゴラスが、もし町の誰かと本当の恋に落ちたら? 彼もその“誰か”と運命を共にするのだろうか。
 もし、そうなるならば、この手でレゴラスを西へ攫って行くまでだ。彼が悲しみに暮れて、死んでしまう前に。
 代々の跡継ぎを教育して来たが、こんなに胸が騒ぐ事は無かった。
 それはやはりレゴラスがエステルに弓を教えに来る、という事が原因なのか。
 過去の跡継ぎも、何人かレゴラスとは出会っている。だが、いつでもレゴラスは彼らの養父や私の客人であり、互いに興味を示す程の間柄にはならなかった。
 エルフ族の中でも、特に人間と親しくしている闇の森のエルフなら、人間の脆弱さや愚陋(ぐろう)さはよく知っているはずだ。いくら人間を羨望するレゴラスでも、人間と恋に落ちる等考えられなかった。
 中つ国でのエルフの時代は、これから益々衰退して行き、いずれは人間の時代が来る。(私も多少の先見の明があるが、エルロンドが言うのだから間違いないのだろう)
 エステルはその人間達の王となる子供。レゴラスも王族の身分の者。
 私の杞憂でありたい、と切に願わずにはいられなかった。
 そしてレゴラスはやって来た。


←BACK NEXT→