彼はチラリとこちらに顔を向け笑った。
それならば、私より遥かに年の近い双子か、領主のエルロンドに聞くべきだろう。
僅かに表情が引き吊っている様に見えるのは、気の所為か。
「男女、種族を問わず、あの人を手に入れたいと考える輩は多い。あなたもそのお一人か?」
そう。身近な所で双子の片割れに始まり、裂け谷の侍女達、エスガロスの人間、宴の招待客達…。手に入れたいと思っているかはともかく、興味を持っている者は数多い。
そして、ここにも一人居たか。
「まさか。あの日以来、宮殿の侍女達の間で、噂が絶えませんので」
「まさか」か。それが本心なら、何も言う事は無いが、明らかに心の動揺が見て取れる。
ならば、ここは上のエルフとして、そしてレゴラスと先に関係を結んでいる者としての余裕を見せておくか。
目の前のエルフは、私達の関係を、深く睦み合っていると思っているのだから。
「例えるなら、そうですね…」
ここで私は、レゴラスを形容するのに、相応しい言葉を探す。
彼の美しさを損なわず、そして敵を寄せ付けさせない言葉を。
「――彼は蝶ですよ。何人(なんぴと)も捕らえる事の出来ないね…」
そう、彼は蝶だ。私の前で艶やかに舞い、捕らえようとして、スルリと擦り抜けたかと思うと、再び私を誘惑する。
客間のフレトへ到着し、中へ案内される。
そして案内係が「ごゆるりと」と、エルフ式の一礼をして立ち去ろうとした時、私は彼を呼び止めた。
「……ハルディア。ガラズリムの狩人に忠告を」
否、忠告ではない。これは警告だ。
複数形とする所を、わざと単数形にして、鎌を掛ける。
彼もロスロリアンの近衛隊長を務める程の男である。自(おの)ずとこの意味を汲み取るだろう。
「はい?」
ハルディアは怪訝そうに振り返った。
「蝶の毒には気を付けられよ。特に艶(あで)やかで美しい蝶には」
彼の蝶の毒は、まるで麻薬だ。その鱗粉は肺胞から骨の髄にまで入り込み、魅せられたら、死ぬまで貪らずにはいられない。私は既に髪の毛の先迄、その毒に侵されている。
私は背を向け、奥の間へ入った。
長椅子に座り、思案に更ける。
たかが一介の兵士が、事もあろうに闇の森の王子に想いを寄せるとは…。
《身の程知らずめ…》
この日は朝からイムラドリス中の人々が、忙しなく働いていた。
数日前、早馬がやって来て、ガラドリエルの遣いで、例の近衛隊長一行がやって来るという知らせが入ったからだ。
私も一行が到着すると、『最後の憩』館へ向かい、玉座の右手に立って、彼らを出迎える。
《よく参られた》
エルロンドは裂け谷の主らしく、優雅で威厳に満ちた動作で玉座から立ち上がる。そして流れる様な所作で、両腕を広げて歓迎の意を表し、ハルディアに向かってにこやかに手を差し延べた。
握手を交わすと、ハルディアはガラドリエルから預かったという品々を、我らの前に広げる。
《この美しい布は、夕星の姫様へ。姫君の為に、奥方お手ずから織られました》
《まあ! 早速、これでドレスを誂えましょう。ねぇ、お父様?》
喜ぶ愛娘に向かって、エルロンドは嬉しそうに頷いている。
その様子を、私も微笑ましく見ていると、妻の姿と重なった。
流れる様な金髪がゆっくりと振り返る。それははにかんで笑い掛ける妻の姿ではなく、私を射る様に見つめる緑葉だった。
レゴラス――私が妻以外に贈り物をした唯一の人物。
私からの衣装に、彼もこの様に喜んでくれたのだろうか。
(いや、それは有り得ないな…)
胸の内で、渋い表情を作る。
袖を通し、鏡の前でクルクルと回ってみせるレゴラスなど、想像出来ない。しかし、そんな風に喜ぶ姿は、さぞかし可愛らしい事だろう。
夕食には歓迎の宴が開かれ、その席で、堪らず私はハルディアに、闇の森でのレゴラスの様子を尋ねた。
しばらく大人しくしていようと誓ってはみたものの、愛しい王子の事は一時も忘れる事が出来なかった。
「ハルディア、闇の森にお寄りになったそうですね」
ロリアンエルフのほとんどがエルフ語しか話さない為、私は共通語で話し掛ける。
大勢の中で秘密の話をする場合、当人同士しか判らない言葉で話す事程有効な手段は無い。
「えぇ。あの森は益々闇の色が濃くなった様に思います」
私は、ハルディアの持つ空のグラスに、ワインを注ぎ入れる。
「緑葉の君にはお逢いになったのかな?」
「えぇ。相変わらず美しい方でした」
「そうですか」