作業の邪魔をすると、機嫌を損ねて手にしている刃物をこちらに向けて来るとも限らないので、黙ってカールの背後に備えてある仮眠用ソファにゴロリと横になり、持って来た新聞を開いた。
一方カールは、研磨機の甲高い音に混じった、扉の開いた僅かな音を聞き取り、再び身体を強張らせた。
(ひーーっ、か…帰って来ちゃったっっ)
再び心臓が激しく鼓動を始める。
ヴァン・ヘルシングがそのままソファに横になり、新聞を読み始めても、気になって仕方がない。
ゴクリと唾液を飲み込む。
(や、やっぱりジョルジオの言う通りなのかな…)
そう頭の片隅でぼんやりと思った瞬間、研磨機に刃を押さえ付けている手が弾かれた。
「い、痛っ!」
刃の折れた音がし、続けて石張りの床に金属音が響く。
カールの叫び声を聞き、ヴァン・ヘルシングは飛び起きる。
「カール! どうした!?」
「だ、大丈夫。何でもない」
とは言ったもの、左の人差し指の先から、パタパタとルビー色の血が流れ落ちていた。次いでジリジリと痛みが襲って来る。
「大丈夫なものか! 見せてみろ」
ヴァン・ヘルシングは慌ててカールに駆け寄り、膝を着く。
「舐めておけば治りますから」
何となくヴァン・ヘルシングに近付いて欲しく無くてそう言うが、傷を押さえているカールの右手は血で汚れ、指の間から流れたそれは、服にも落ちていた。
「バカ言え!」
押さえ付けている右手を退け、怪我した左手を取る。
血が流れる指先を見ると、迷わずそれを口に含んだ。
「ちょ…ちょっと! 何するんですか!!」
カールは予想もしないヴァン・ヘルシングの行動に、目を見開くと、抗議の声
を上げる。
「…黙ってろ」
傷口に感じるザラリとした舌の感触に、カールは甘い戦慄を覚え、ぎゅっと目を閉じた。
一気に、顔に熱が上がる。
この時間の長い事。
「救急箱は?」
「あ、あそこの棚に…」
それを聞くが早いか、立ち上がり棚から救急箱を取って来る。
カールは唾液で濡れた指先に、血液がジワリと滲むのを、ただ見つめているだけしか出来なかった。
ヴァン・ヘルシングは救急箱を手にして戻ると、同じ様に膝を着く。箱の中から消毒用のアルコールを出し、それをガーゼに染み込ませると、傷口に巻き付ける。
「少し染みるが、我慢しろよ」
「…つっ!」
傷口から刺す様な痛みが襲い、一瞬顔を歪めた。
包帯を巻いて行くヴァン・ヘルシングの大きな手が、自分の手に触れている。
「ふ、普通こんな事、しないですよね」
口から心臓が飛び出て来そうだ。大きく刻む鼓動が、指先にまで伝わって、ヴァン・ヘルシングに判ってしまわないかと余計にドキドキしてしまう。
「何が?」
「そ…の…」
人の指を舐めるなんて。
『舐める』という単語を口にするのが躊われる。
「お前が舐めときゃ治るって言ったんだ――ほら、出来たぞ」
だからって、本当に舐めるなんて。
そう抗議しようとした時、包帯をグルグル巻きにされ、倍の大きさになっていた左手に気が付いた。おまけにヘタクソだ。
「ヴァン・ヘルシング! これじゃ作業の続きが出来ないじゃないですか!」
薬箱を元に戻しに行く彼の後ろ姿に、そう言う。
「今日はもう大人しくしてろ」
「えー! でも、それじゃ――」
ヴァン・ヘルシングのチラリと向けられた視線に睨まれて、グッと言葉を飲み込んでしまう。不満で頬をぷくっと膨らませるが、良い事を思い付いた。
これなら一日中好きな事が出来るし、取り敢えずヴァン・ヘルシングの前から逃げる事が出来るかもしれない。
「じゃあ、本を読む位良いですよね?」
相手の出方を伺う様に、上目遣いでそう言ってみる。
ヴァン・ヘルシングは、再びチラリとこちらを見ただけだった。
「あぁ。でもその前に、施療院に行けよ」
無愛想だが、てっきり、それすらもダメだと言われると思っていた為、意外とあっさり許可が貰えた事に、思わず顔が綻ぶ。
「本当に!? ありがとう、ヴァン・ヘルシング! 大好きだよ!」
勢い良く立ち上がると、足早に部屋を後にした。無意識に「大好きだよ」と口にした事も気付かずに。
ヴァン・ヘルシングは振り返えると、扉が閉まるのを見ながら頭を掻いた。
「参ったな…」
そう呟きながら、ちょっとやり過ぎたか、と少し反省する。
(しかし、あの上目遣いは反則だよな)
おまけに「大好きだよ」とは…。
嬉しさが込み上げて、口許に自然と笑みが浮かんだ。