レゴラス達が闇の森に帰って、一月経った頃。
その日も私は、午後のテラスで、書き物の続きをしていた。
「噂は本当の様だな」
「エルロンド……一体、何の噂です…?」
眉を顰めながら、手を休める為に、ペン先を拭く。
「そなたが女遊びを止めたと云う話だよ」
丸テーブルの私の向かいの席に据わりながら、エルロンドはそう言い、ニヤリと笑った。
明らかに何かを知っている笑みだったが、敢えて何も言わないでおいた。
確かにレゴラスとゲームを開始した日。彼への愛に誠意を示す為、彼以外の者と、セックスする事を止めると誓った。
「誰がその様な話を? 双子ですか?」
侍女がエルロンドにお茶を持って来た為、テーブル中に広げた紙を整理する。
「違うよ」
エルロンドは自分専用お茶を飲みながら、そう言った。
“噂”の出所が双子でないのなら、エレストールかその辺りの重臣だろう。もしくは、関係を持った女性達か。
こう考えると、予測される出所があり過ぎて、怖いくらいだ。
「レゴラス殿と、ちょっとしたゲームをしているのですよ」
「ほぉ…」
エルロンドは、さも意外、と言った顔をした。
「――あの他人嫌いと、ゲームとはね」
私もティーポットから、紅茶をカップに注ぎ入れる。フワリと良い香りが漂った。
「あぁ、内容は二人の秘密ですからね」
カップを口に運びながら、これ以上詮索されまいと、空かさず釘を刺した。
ふうん、と言った顔をして、エルロンドはカップを置くと、席を立ち上がった。
「いずれにせよ、そなたの病が治ったのは良い事だ」
「間違っても、アルウェンに手は出しませんよ」
冗談で言ったつもりだが、堅物で有名な裂け谷の主には通じなかった様だ。ジロリと睨まれてしまった。
「当たり前だ。そんな事をしたら、そなたの意思に拘らず、ヴァリノール行きの船に乗せてやる」
「ご安心を、我が君」
エルロンドの背中を見送りながら、私は肩を竦めた。
サウロンがこの中つ国の何処かに身を潜め、“一つの指輪”を見出だし、再び力を取り戻そうとしている今、ヴァリノールに戻る訳にはいかない。何の為にこの身を犠牲にして、再び復活して来たのか。(うちのグロ様は、『シルマリルの物語』のグロ様と同一人物です。情報の少ないキャラはいじって楽しいわ〜♪)それより何より、レゴラスとの賭けは始まったばかりなのだ。ヴァリノールに送られては、私が負けたも同然になってしまう。これだけは何としても避けねばならない事項だった。
しかしエルロンドのあの意味深な笑み。
私とレゴラスを引き合わせたのは、彼の策略か。それともスランドゥイル殿の差し金で、エルロンドも一枚噛んでいるのか。
私はまんまと、嵌められたのかもしれない。
《……まさかね》
その後は日が暮れるまで、愛しの闇の森の王子に送る、愛の歌を作る事に没頭した。
あれから何年の月日が流れたのだろう。エルフは時の流れの感覚が希薄な為、人の世の何世代の時が過ぎたのかなど、判らなかった。
それでも私のレゴラスへの愛は、色褪せる事なく、彼へ歌を送る事で続いていた。それは既に、何百通となっているだろう。
まだ少年の様相を残していた彼は、今ではすっかり成人し、より美しく成長している事だろう。
今日は裂け谷には珍しく、激しい雨が降っていた。部屋の窓ガラスに大粒の滴が打ち付けられ、お世辞にも美しい旋律とは言えなかった。おまけに、強い風が隙間風となり、時折カタカタと激しいく窓を揺らした。
こんな日は、外へ出る者は誰もおらず、私も自室で読書をしていた。
夜が更けても、雨の勢いは一向に衰える様子は無く、私はうんざりして本のページを捲る手を止めた。
水滴で曇ったガラスを素手で拭き、外の様子を伺い、溜め息を吐いた。
すると、雨音に混じって、微かに馬の嘶く声が聞こえた様な気がした。しかし、窓の外を覗いてみたが、エルフの眼でも確認する事は出来なかった。
気のせいだったかと、もう一つ大きな溜め息を吐いて、再び読書を再開した。
しばらくして。それはページを一枚繰っただけの、僅かな時間だった。
雨音と窓の揺れる音だけの静寂の中、突如としてそれは破られた。
部屋の扉の開かれる大きな音に驚いて、顔を上げる。目に飛び込んで来たのは、旅装束のマントを目深に被った人物だった。フードの口から金髪が覗いていた為、この侵入者がエルフである事が判った。
頭の先から足の先までずぶ濡れで、パタパタと水滴を落とし、あっと言う間に、足許に小さな水溜まりが幾つも出来た。
椅子から立上がり、そのエルフに用心深く近寄る。
《何者です?》
「グロールフィンデル様!」
エルフは頭に被ったフードを剥ぎ取り、私の名を呼ぶと、いきなり抱き付き、噛み付く様に唇を重ねて来た。
あまりの事に、一瞬にして頭が混乱する。
雨で冷えた凍る様な唇に、体温を奪われて行く。
相手の舌が侵入し、自分の舌を絡め取られる。 久し振りのキスに酔い痴れる余裕も無く、このエルフの身体を引き剥がし、顔を確認する。
「……レゴ…ラス?」
思いがけない人物が、目の前にいた。
彼はその碧い双眸で、真っ直ぐに私を見つめてくる。
「…何故、あなたがここに…?」
想像していた通り、すっかり成人し、よりエルフらしく成長を遂げていた彼が目前に居る事に、戸惑いが隠せない。
レゴラスの震える唇が、言葉を紡ぎ出す。
「――て…下さい」
「え…?」
「私を…抱いて下さい」
私は自分の耳を疑った。
彼は私に抱いて欲しいと、言ったのか?
「レゴラス、落ち着きなさい」
いきなり部屋に入って来るなり、突拍子も無い事を言い出したエルフの両肩に手を掛けて、こう言ったものの、まず落ち着かなければならないのは、私の方だった。
「――まずは、その濡れた衣装を着替えて。私のを貸しますから」
レゴラスが抱き付いた時に、私の衣装にも雨水が染み込んでいた。
衣装部屋に連れて行き、レゴラスの身体のサイズに合いそうな衣装を選ぶ。
「一体どうしたと言うのです? あんなに取り乱して、あなたらしくもない」
衣装を選び、振り返ると濡れた旅装束を半分脱ぎ掛けたレゴラスは、俯いていた。
「…判らないのです。この衝動を抑える事が出来ない」
この言葉で、私はレゴラスの身に何が起こったのかを悟った。
この中つ国の、人の為りをした種族の中で、エルフだけが持っている習性。
レゴラスに、発情期が訪れたのだ。