その日の夕食に、レゴラスは姿を表わさなかった。
姿を見せない息子に、スランドゥイル殿はまるで気にも止めていない様だった。
この親子の関係に、私が口を挟むつもりは無かったが、レゴラスが他人に対して、何故あの様な態度を取る様になったのか判った気がした。
その夜は、日頃進めている書き物にも、全く手に付かなかった。
ペンにインクを漬けたまでは良いが、何かを考えようとする度に、レゴラスの事を思い出すのだ。
私の腕の中に抱かれている彼でなく、私の腕を振り払い、冷たい目で見つめて来る彼を。
『私に興味が? 父親でさえ、私に無関心なのですよ?』
この言葉を、彼はどんな気持ちで口にしたのだろう。
「――父親でさえ…、か……」
繰り返してみようと、声に出してみたが、続ける事が出来なかった。
心が痛く、まんじりともせず、夜明けを迎えた。
レゴラスは朝食にも、姿を現さなかった。
食事も終わり掛けた頃、隣りで食事をしていたエルロンドが口を開く。
「今朝もレゴラスは、姿を見せぬ様だな」
その原因が、私である事は明白だったので、非常にバツが悪かった。
「え…えぇ、その様ですね」
私の歯切れの悪い、曖昧な返事に、裂け谷の主は怪訝そうな顔をした。
「一度、様子を見て参りましょう」
私は慌てて、その場を取り繕った。
「レゴラス様なら、今朝早く、ご自分の馬でお出掛けになったのを見掛けましたわ」
食後の紅茶を煎れながら、侍女がそう教えてくた。
「そうですか、ありがとう」
私は朝食を終えると、すぐに厩舎へ行き、愛馬・アスファロス(代々グロ様の馬の名前はアスファロスという事で)に乗ると、急いでレゴラスを捜しに出掛けた。
裂け谷へ初めて来たレゴラスが、行きそうな場所は限られているだろう。しかし、入り組んだ道に迷い込んだとも限らない。
あちらこちらを捜し回り、辿り着いたのは裂け谷の外れ、ブルイネン川だった。
川岸に繋がれた白馬を見付け、その主人はすぐ近くの手頃な石の上に腰掛けていた。
安心したと同時に、何と声を掛ければ良いのか戸惑っていると、レゴラスの馬が嘶き、持ち主はこちらを振り向いた。
「…レゴラス」
アスファロスから降り、歩み寄る私に気が付いた闇の森の王子は、直ぐ様立上がり、足場の悪い川辺を馬の方へ駆け寄ろうとした。
「――危ない!」(←お約束)
据わりの悪い石に足を乗せた為、それは崩れ、レゴラスは前に倒れかけた。咄嗟に彼の身体を受け止める。
「大丈夫ですか?」
彼を立たせながらそう問うてみると、やはりと言うべきか、鋭い視線で睨み付けて来た。
「…私に触れるなと、申し上げたはずですけど?」
本当にこの方の気の強さと言ったら…。
私程の年長者になると、若いエルフのこの様な態度、仕草は逆に可愛らしく見えるものだ。だから、父王もエルロンドも気にした風にしていないのかもしれない。私は逆に、からかってしまいたくなるのだが。
「そんな事、おっしゃって」
私はレゴラスの両肩に手を置き、耳元に唇を寄せ、囁き掛ける。
「――誰も触れた事の無い所まで、触れられたのに……」
次の瞬間、山間の川辺に大きな音が谺し、左頬を叩(はた)かれた。
避けようと思えば避けれたのだが、それなりの事をしたのだから、この位は仕方無い。これで彼の気が、少しでも済めば良かった。
レゴラスは羞恥と怒りで顔を朱に染め、唇を真一文字に結び、目を潤ませ睨み付けて来る。
彼はこんなにも、感情的なエルフなのか。
そして気高く、孤高の人…。
「……グロールフィンデル様、あなたという方は私を――」
声が震えていた。
「初めて、私の名を呼んでくれましたね」
叩かれた左頬に手を添え、痛みに耐えながら微笑んでみせる。
レゴラスはプイッと顔を背けると、繋いでいた愛馬の手綱を木から外した。
《愛してますよ、レゴラス》
谷間を通る緩やかな風が、二人の髪を揺らした。
レゴラスは馬に乗ろうと手綱に手を掛けたまま、こちらに振り向いた。
《あなたの心が私に向いていなくとも構わない。あなたが男性だった事は、大誤算でしたけど、一向に構いませんよ》
私はレゴラスに近付き、その白く柔らかな頬に指を滑らす。
《――あの夜、私の心はあなたに奪われてしまったのだから》
愛し気に見つめていると、レゴラスは私の手を取り押し返すと、悪戯を思い付いた様に、口端上げて笑った。
《それではグロールフィンデル様。私と賭けをいたしましょう》
上目遣いで、挑発的な視線にゾクリとした。
その視線が私の欲情を掻き立てている事に、あなたは気付きもしていないだろう。
「…これはまた、思いも寄らぬお申し出だ。――して、賭けるものは?」
目の前の闇の森の王子は、目を細めて妖艶に笑った。
「ものは、私です。私があなたを愛したら、あなたの勝ち。私はあなたのものになりましょう」
私は絶句した。
「…正気…なのですか?」
表情が引き釣っているのが判った。
いつの間にか、立場も逆転している。
「えぇ、勿論。あなたは私を愛し続けていて下されば良いのです。簡単な事でしょう?」
「で、私が心変わりしたら――」
「私の勝ちです。如何です?」
私に異存がある訳が無かった。
「良いでしょう、その賭け。乗りましょう」
私が快諾すると、レゴラスは満足そうに微笑み、馬に跨がった。いや、あの笑みは、勝ちを確信している笑みなのかもしれない。
「それでは私はこれで…」
馬上の人となった麗しのエルフは、裂け谷の奥へと去って行った。
これで私と彼は“賭け事”という繋がりが出来たのだ。
《私も負ける気はありませんよ》
髪を掻き上げながら呟く。
エルフには悠久の時があるのだ。何千年掛かろうとも、必ずあなたの口から愛の言葉を言わせてみせよう。