岩戸尾城跡
 岩戸尾城は現在山陽女学園があるところの岩戸山(標高57.5m)にあったが、削平されて旧状はとどめていない。岩戸山は当時海に突出した岬のような地形で、絶壁をもった要害の地であった。
 大永3年(1523)4月友田興藤が、銀山城の武田氏らの援助で大内氏の拠点の兵を追放して桜尾城に入って厳島神主となった。同4年(1524)大内義興は大軍を率いて安芸に入り、大内氏を離反した友田興藤を攻めるために岩戸山に陶尾張守興房(晴賢の父)が陣取って、興藤がいる桜尾城を取囲んだ。同年義興と興藤の和議がなっても引き続き興房は岩戸山におり、同5年(1525)正月元日には厳島の義興の元に年賀の挨拶に向かい、5日には岩戸山で「又一重山あたらしき霞哉」の発句の連歌を興行した。2月に興房は厳島に向かって棚守宅で義興を饗応しており、4月には矢野に渡ってのち志和の米山城に陣を移した。
 岩戸尾城は桜尾城の出城(俗説七尾城)とされていたが、このようにみていくと岩戸尾城は桜尾城の友田興藤を攻めるための攻城であったことがわかる。周防守護代であった陶興房が約9ケ月も在陣していた岩戸山には相当の施設があったものと思われるのである。


廿日市の中世城跡
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