呆冗記
呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。


特撮の崩壊

 さて、気にはなっていたのだが、なかなか行く機会のないまま時間だけがたってしまっている作品がある。いや、正確に言うならば、できることならばこのまま見に行かずに忘却の彼方に納めたかったのかもしれない。
 『機動警察パトレイバー』これは、私に多大な影響を与えたアニメである。もう上がろう。そう考えていた私をこっちの世界に引き戻した恐るべきアニメなのだ。(その割には、TV版はビデオに撮ったのに見ないで腐らせてしまったし・・・。新作OVAも追っかけてはいないのだが。ともかく、最初のOVAは私に多大な影響を与えたのである。
 そして、時間は流れる。映画版第一作は間違いなくパトレイバーの映画だった。パトレイバーが存在する近未来。その前提条件があってこその作品だった。
 特定の周波数によって誤作動するレイバーのOSの描写。
 犯人は本当に存在したのか。
 冒頭の自殺のシーンから最後の最後まで、レイバーなしでは構築できない映画であったのだ。
 そして、この作品の成功をもって、アニメ、『パトレイバー』はTV化され、新しいOVAも制作された。そうして、劇場に戻ってきたのである。しかし、戻ってきた作品は我々の、いや私の待ち望んだ作品ではなかったのだ。
 劇場版第2作は、少なくともパトレイバーの世界が必ず必要な作品ではなかった。そう、後半に描かれたパトレイバーの戦いは、しかし、蛇足の感を拭えなかった。あれがなければ、劇場版第2作は日本映画史上に残る『クーデターもの』となり得たであろう。
 その頃読んだ本の中で制作者サイドが
 「最初のOVA、最後の2作『第二小隊のいちばん長い日』(この題名からして岡本喜八監督『日本のいちばん(一番ではないはず)長い日』(1968年 東宝)の影響が大であることを明言している)の復讐戦としてこの作品は制作した」
 と言っていたことを私ははっきりと覚えている。(怒りのあまりの刷り込みでなければだが)
 我々、私が見たかったのは『パトレイバーの映画』であり、制作者が作りたかったのはパトレイバーの出てこない『第二小隊のいちばん長い日』であったというわけである。
 このギャップの前には、劇場版第2作がいかに名作であろうとも、日本の『今、ここにある危機』と評価されようが、何の意味もない。あるのはただ、失望と無常観だけであった。20代半ば、私も若かった。そういうことだったのであろう。
 そして、劇場版新作制作の話が聞こえてきてはとぎれ、聞こえてきてはとぎれた。私にとって『パトレイバー』は忘却の海に沈んでいった。
 そして、9年。新作は現れた。ゆうきまさみ氏のマンガ版の中でも、グリフォン編と並んで評価の高い、廃棄物13号編を原案として。
 そして、私は性懲りもなく、裏切られることを承知でお布施を払いに出かけた。そう言うことなのである。

 水曜日、7時過ぎの映画館。空席の目立つ、いや客が二桁を超えるか超えないかしかいない館内は一種異様な雰囲気に満ちていた。ネクタイを締め堅気を装っているが、お互い、本性は見え透いている。後二日しか上映しない映画の、しかも夜7時過ぎからの上映につきあおうなどと言うのは酔狂を通り越しているではないか。
 そんな和やかな? 雰囲気の中、『ミニパト』が始まった。後藤隊長の説明による、『燃えろ、リボルバーカノン』これは初期OVAのテイストに満ちている。
 これだけでも、元を取ったかもしれないな。
 本編にあまり期待していなかった私はそう思ったのだ。少なくとも、原因不明の破壊衝動に身をゆだねる可能性は減ったわけである。
 そして、本編が始まる。
 なんだい、これは。
 アニメらしくない。そういえるだろう。カットが細かく変わりすぎるのだ。人物達のまわり、本来は背景でいいはずの場所までアニメーションしている。実写ならば当たり前といえる演出が、アニメでなされている。
 推定30分ほどで、私は制作者の意図に思い当たった。
 とんでもないことを考えてやがる。
 進むにつれて、推測は確信に変わる。
 こいつら、怪獣映画に引導渡そう、そう思っているのではないか。
 特撮という表現方法の限界は、その現実の物理法則にある。絶対に、そう、絶対にそれは超えられない。ライティング、着ぐるみならばその造形。エトセトラエトセトラ。故にCGとの融合などが成されているはずだが、よほどのことがない限り、『実写』という平面鏡に『怪獣』という異物の存在は違和感が発生するのだ。ま、それを納得ずくで騙されに行くのが現実なのだが。
 しかし、アニメという『曲面鏡』に『怪獣』という異物はどう写るのだろうか。しかも、その『曲面鏡』はしだいにその曲面率を高めていくのだ。
 もはや、この映画ではレイバーは背景の一つでしかない。あって当たり前のもの、と、同時に、『ゴジラ』におけるオキシジェンデストロイヤーのようなテクニカルタームでしかない。レイバーがメインなのではない、レイバーは付け足されたのでもない。あって当たり前、それ以上でも、それ以下でもないのだ。
 ラストシーン。廃棄物13号の絶叫。被っていたレイバーのドン殻が破壊された時に現れた細胞提供者が誰かを表す乳房。ここに、凡百の『怪獣映画』は崩壊した。そう、私は思ったのである。

 ただ、個人的に思ったことを二つばかり。
 一つは岬冴子が美人すぎるのではないかという懸念。これは普通の美人のお母さん的な表現の方が、より愛憎のひだが描けたのではないか。ま、ヒロインにはなりづらいかもしれないが。
 もう一つ、私は、少女が不幸になる作品はできればご遠慮したいというきわめて自己中心的な考えである。
 廃棄物13号は、間違いなく。少女であった。そう言えると思う。
(02,4,20)


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