呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。
何を食べてもいいだろう
新聞を読んでいて思わず笑ってしまった。
以下、朝日新聞11月14日朝刊。第二社会面より。
総合学習「鶏を飼育して食べよう」 保護者「残酷」中止に 秋田の小学校
鶏を飼育したあと、食肉として処分、その肉で子どもがカレーを作って食べる。秋田県雄物川町の雄物川北小学校で5年生のクラスがこんな授業を進めた。「残酷だ」と保護者から反対の声があがり、解体、調理は中止になった。担任の女性教諭(33)は「食と命の尊さを教えたかった」という。
担任教諭は6月、食用鶏6羽を近くの農業高校からもらった。子どもには飼育し、解体して食べることを説明。保護者にも趣旨を伝えた。
1羽が死んだが、5羽は成長。13日には農業高校で、子どもの目前で解体処理し、学校でカレーとして調理、昼食として、児童たちが食べることになっていた。
直前に一部の保護者から、批判的な声が匿名で届いたことなどから中止に。塩田紀子校長は「保護者との意見交換が不十分だった」と話した。学級通信によると、「人間は、別の生き物を食べなくては生きていけない」「毎日エサをやってがんばったのに殺すなんて」などと、子どもたちの意見は割れていた。(着色、拡大 上杉明)
いや、笑ってしまったのは不見識かもしれない。しかし・・・。笑うしかない。
まずは「子ども」問題。子供で何が悪い。というのは前にも書いたが、何で漢字で悪いのだろうか? いつも思う。このことは『晴れときどきブタ』の作者と意見はほとんど同じだ。というわけで、そちらをご覧いただきたい。
しかし、私、この授業には、小学校教育からスピンアウトした立場ではあるが、100パーセント賛同する。人間は他の生命を殺さなければ生きてはいけない存在だ。何かを食べなければ生きてはいけない。それなのに更にうまいものを求めるのだからその業たるや凄いものがあると思う。何が「喜八」さんの鯨だ、何が「
フンベHOFおおくま」さんのカニだ。だからこそ、自分の手で育てた命を食すことで、命と食べ物の大事さが解ると思うのだが・・・。
というか、自分で肉を作るのは駄目で、人が作った肉を喰うのはいいのだろうか? これは自分の手を汚さないで生きていこうとする日本の現状を助長するのではないだろうか。
そして、最大の問題は「匿名」の声に学校が屈してしまったことである。これで子供たちは何を学んだか? 自分の名前すら明かすことなく、文句を言えば、話が通ってしまうということだ。彼らは今後、決してその名前を明かすことなく匿名の批判者として生きていくことだろう。自分の名前を名乗り、そして批判する。これはとてもしんどいことだ。
まあ、私にしても上杉明というのはバンドル名であり、実名ではないが、akira_uesugi@mug.biglobe.ne.jpは確実に私に繋がっている。このコラムに異議があればいつでも受けてたつつもりだ。(ま、こんな2年半でようやく2000人が訪れた程度のサイト、歯牙にかかることもないのだろうが)
しかしだ、この先生、根回しが足りなかったのだろうか? いや、33才だ。そこに抜かりがあったとは考えられない。学年主任や教頭まできっちり話は通っていたはずだ。そうでなければおかしい。学校で鶏を飼うことはいろいろな許可がなければ出来ないことだ。
うまくいっていたら、おそらくは総合学習の素晴らしい1教材として脚光を浴びたかもしれない。しかし、これでこの教材。総合学習で命の大切さを扱うことは非常な困難をもたらすことは間違いない。日本の心臓移植と同じだ。
しかし、この食べるという行為はどうしてこんなに罪作りなのだろうか?
先日、ラジオで聞いた話だが、
「ワールドカップ開催国の韓国は、犬を喰うな」
という批判があり、韓国は強く反発しているらしい。
いいじゃないか。そんなこと。韓国人が国内で犬を喰おうと喰うまいと。そう思ってしまうのはいけないことなのだろうか?
よその国の人間がその文化に基づいて何を食べようと、外部の人間がどうこう言えるものなのだろうか? まあ、鯨を喰うなと言われている日本人も、アイヌの方々から鮭を自由に捕る権利を奪っているから偉そうなことは言えないのだが。
ま、ともかく、来週にでも網走まで鯨を喰いに行って来ますか。(私だけ、喰っていないのだ。畜生)(01,11,16)