伝統美を守ろう
さて、日本にはいくつもの伝統の美がある。和室の床の間、飾り棚、障子に襖、掛け軸に生け花。
一説によると我々の文化は平安時代から変わっていなのだそうだ。
そして、ここにも美しい伝統の美がある。
1 半分以上が地中に埋まっていなければならない。
2 上から見たカットは必ず頭が右下である。
3 前から見て右に少し傾いでいればもっとよろしい。
4 敵に発見されたとき、主動力は作動していない。
5 主動力点火の最初の試みは致命的ではないミスによって失敗する。
6 その時点で敵の攻撃は目前に迫っている。
7 2回目の主動力点火の試みの後、しばらくの間いっさいのBGM、効果音は消失する。
8 6のようにもったいぶった後で主動力は100%確実に作動する。
8 その直後敵の強力な攻撃を受け。大量の爆炎によってその姿が隠される。
9 爆炎が収まった後、その勇姿を我々の前に現す。
そう、これが伝統美である。これほど美しいものが他にあろうか。いや、ない。
『宇宙戦艦ヤ○ト』に始まったこの様式美は延々と、その命脈を保っているのである。
『ナディア』のネオ・ノーチラスが、そうだった。
『無頼高軌道』の飛龍もそうだった。
そして、今、『ZOIDS』のウルトラザウルスが見事にそれを継承してくれたのである。
いやあ、TVの前で思わず唸ってしまった。そして、いい意味で腹を抱えて笑わせてもらった。
もしも可能であるならば、その場で即座に反撃に転じて欲しかったのだが、いかんせん、物語の構成上、敵の下っ端メカ、(流星爆弾だとか)ではなく、敵の親玉の攻撃故、即座に反撃、撃破してしまうと、物語上非常に困ったことになるのでしかたがなかろう。
しかし、日本人という奴は本当に予定調和が好きである。いや、これは人類総ての特徴かも知れない。
必ず分かり切った状況展開に涙し、笑い、怒るのである。
音楽のバリエーションは既に出尽くし、後はアレンジするしかない。とはある現代音楽家のインタビューの一節だが、文学、ことに小説の世界はそれがもっと著しいのではないだろうか。
むろん、新しいものを作り出す努力は必要だろう。
しかし、人間が食事し排泄し、人を愛し、人を憎み、喜びに楽しみ、怒りに悲しむ。
人類の住人が男と女である限り、物語はパターンの繰り返しかも知れない。
だからこそ、人は同じ物語を紡ぐのかも知れない。
などと、このまま行くと文学論に行ってしまいそうなのでここらで、引き戻す。
ま、第60話『超巨大要塞』と61話『巨竜大海戦』を見ると本当に、日本のアニメ界と言う奴は巨大戦艦VS航空機シチュエーションというものが好きなのだなあと思う。
やはり、日本人の遺伝子には連合軍航空機によってめったやたらに攻撃されて沈んでいった『帝国海軍戦艦 大和』の末路がインプットされている訳・・・ではあるまい。
『宇宙戦艦○マト』の現在のアニメーターに対する影響が大なのだろう。少なくともアニメーターの方々の誰でも知っている共通言語としての『ヤマ○』の存在が無視できないのではないか? そう考えるのだ。
『宇宙戦艦ヤマ○』の共通言語性誰でも知っているという性質は確実に『機動戦士ガンダム』へ受け継がれ、その後薄まりながらも『町機動要塞マクロス』へながれ、その後、絶えたかに見える。(あくまで個人的意見である。お間違えのないよう)が、逆にそのことがアニメの世界において『ヤ○ト』の遺伝子が汎用的な存在、共通言語としての存在となったといえるのではないだろうか?
しかして、その共通言語は消費され陳腐化し、その役目を終える。そして、次の共通言語が消費されることになるのだが、残念ながら、アニメの世界では第二の『○マト』、『ガンダム』は見あたらない。『ガンダム』は今だその形のままで新作が作られているし、新たな動きかと期待された『新世紀エヴァンゲリオン』は熱狂的なファンであった身からすると無念だが、徒花と化すだろう。エヴァを否定するような形で始まった『無限のリヴァイアス』にしても大きく動かすムーブメントにはなり得ないような気がする。アニメ界の一般的な部分が(多様化しつつある価値観はおいておいて)陳腐化しているような気がするのである。
このままでは、共通言語は『ポケモン』ということもあり得るかも知れない。(それはそれで面白いかも知れないが)
さて、この共通言語の現象が次に起こりうるのはコンシュマーゲームの世界。特にRPGではないかと思う。
その世界を形作る共通言語の存在。それはおそらくはDQとFFであろう。(しかし、FFは、1作品ごとに色々と変化があるので共通言語というくくりは辛いかも知れない)
この共通言語で育ったクリエイター達が作る新たな世界。それはどんな世界なのだろうか。そして、その共通言語の世代交代はうまくいくのだろうか?(00,11,19)