呆冗記
呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。


こんな世界の矮小性

 オリンピックが騒がしい。
 私はオリンピックは嫌いである。
 よって今回はこれでおしまい・・・。

 これではどうしようもないので、少し続ける。
 正確に言うと国際ルールと言うものが存在する国際スポーツが嫌いなのだ。
 なぜか? 国際スポーツの国際ルールはころころ変わるではないか。
 たとえば、複合スキー。日本選手が強くなったと思うと即座にルールが改正される。日本選手がジャンプが得意だとすると、その配点を下げるのだ。得意なジャンプを封じられて、距離の苦手な日本選手が勝てるはずがない。
 たとえば、ジャンプ。日本選手が強くなったと思うと即座にルールが改正される。日本選手の身長が低いと見ると、身長に比例した長さのスキーを強制する。翼であるスキーを短くされて、(逆に外国選手はスキーが伸びるのだ)身長の低い日本選手が勝てるはずがない。
 たとえば、ル・マン。(ってスポーツだろうか?)日本のマツダが必死に開発したロータリーエンジンが高性能を発揮すると、レギュレーションを変更して参加できなくする。
 (しかし、この話、痛烈なオチがあって、その許された最後の年、マツダは立派に優勝するのである。日本の技術はかようにすばらしいところもあるのだ)
 たとえばF−1。(これもスポーツではないなあ)ホンダのエンジンに対する毎年のようなレギュレーションの変更は語りぐさである。ターボで高性能出せば、ターボを禁じ、NAで高性能を出せば、そのレギュレーションを変更する。
 (それでも第2期ホンダは強かった・・・。それに比べて今のホンダはやる気があるのであろうか?)
 ま、百歩譲ってスキーもモータースポーツもヨーロッパのお家芸である。そこへ目の細い日本人が大挙して押し掛けてショバ荒らしをすれば腹を立てるのかもしれない。
 嘘か本当か知らないが、スキーのお偉いさんが
 「『ジッパーアイ』(目の細い東洋人の蔑称?)を表彰台に上げるな」
 とはっぱをかけてルールを改正したなどという話も漏れ聞くのである。
 ならばだ、日本のお家芸はどうなのか?
 柔道だ。(ようやく本番)
 一本よりも効果や有効を積み重ねてポイントで勝利することを優先する審判。重心の高い外国人選手に有利な柔らかい畳。そして、カラー柔道着・・・。なんでここまで似て異なるものに変質してしまったのだろうか?
 挙げ句の果てにあの裁定である。間違いなく彼は勝っていたのだ。それを、あんな審判があるのであろうか。
 昔、審判はプロであった。その競技を自らも納め、その競技を熟知していたはずなのだ。そんな審判ばかりならばあんな裁定はなかったはずだ。しかし、現実は自分はほとんどしたこともない競技を机上の空論で学んだ人間が審判をつとめるのである。
 ただ・・・。彼の言葉が唯一の救いである。
 「弱かったから負けた」 
 そう、誰からも文句の言われない一本を取れなかったのだ。そう思っている限り、
 「私が勝者だ、日本のヘッドコーチはその影響力を間違った方に行使しようとした、私は彼を尊敬していたのに残念だ」
 などとコメントする矮小な根性の今回の勝者に雪辱を期すことは間違いない。
 ただ、いくら審判が気にくわないからと行って、審判に対しての日本の心ないファンの行為は彼の値打ちを下げるだけであった。
 こればっかりは審判に「日本人は『良き敗者』になれない」と言われてもしかたがないであろう。たとえ、あんなヘボな審判を行った人間に対してもだ。そんな行為は審判の自己欺瞞の材料にこそなれ、彼を悔い改めさせる材料にはならないのだから。

 私はオリンピックが嫌いである。
 「
日本なんぞどうでもいい」
 というふりをしたい私がなぜか翩翻と翻る日の丸に心を熱く燃やしてしまうが故に、私はオリンピックが嫌いなのだ。(00,9,28)


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