呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。
なんか文化的な日
今日は、平日だが、夏休みを一日もらったので、文化的な生活を送ろうと心に決めたのだった。
しKし、うまくいかないもので、睡眠時間を取りすぎ、一番暑い時間の出発となってしまった。
あまりの暑さにぐったりしながら、北海道近代美術館に自転車で駆け込む。目的は『北大路魯山人展』。
うーん流石、本物は違う。私は自他共に認める芸術音痴だが、その作品の根底に流れる本物の力は大したものと言える。本当にたいしたものだ。
特に「織部しのぎ湯呑み」などは、私の好きな緑色が綺麗で、こんなのでお茶を飲めばさぞかし旨いだろうと思えるものだった。
しかし、時々、あ、こりゃこりゃといったものも散見されて楽しい。
そう、この作品は大部分が某作品の元ネタなのである。
流れるように水仙を生けねばならない「総織部長平鉢」。
遊美ちゃんのお茶碗「色絵竹に牡丹向付」。
いやあ、信楽の大壺がなかったのが惜しまれる。
しかしである、しかし、彼の人生も凄まじいものがある。10才で丁稚奉公に出、12才で絵の道を志し、15才で書の才能に気づき、16才で高収入を得るようになり、17才で骨董趣味が始まり、21才で日本美術展覧会、書の部の1等賞2席を受賞、23才で師匠より依頼が多くなり、25才で結婚、長男誕生と同じ年に三角関係を持ち、26才で朝鮮に出奔。30才で美食に目覚め、31才で妻と離婚、同年愛人と婚約。32才で料理と器の関係の真理に目覚める。36才で2階建て美術骨董の店「大雅堂芸術店」を開業。(以上は展覧会目録より)
私とほぼ同じ歳のここまでで、私が一生かかっても出来ないことをやりまくっているのだ。やっぱり、偉人というものは違うものだと納得することしきりである。その後も、店を作ったり潰したり、追い出されたり、離婚したり結婚したり逃げられたり結婚したり。人間国宝にされそうになったり、断ったり・・・。
偉人である。本当に凄まじいエネルギッシュな人物であったに違いない。
そのあたり、某作品の某人物は愛妻家だが・・・。(いや、恐妻家だろうか)
ま、1回結婚できるかと思っている私なぞの口を出す問題ではないのかも知れないが。
少し暑さに当たってしまったような気になって、一般展示を見る。例のTVH放送終了時にバックに流れる大作が展示されていたが、どうも絵の具のはがれなどが前回見たときよりも進んでいるような気がする。最高の管理だろうから、気のせいに過ぎないのだろうが、やっぱり気になるものは気になるのである。
しかし、時として抽象画は具象画を上回る感動を与えると言うが、何がなんだかわからない絵もままあるのだ。
そのまま、2Fのガラス展を見る。涼しい。何の実用性もないのだが、やっぱり赤と黒の丸いボールの縁に都市のシルエットが浮き出したガラス作品は何度見てもなんとなくもの悲しくなってしまう。
黒が赤を夕日と思わせるのか?
夕焼けはどうも好きではない。しかし、朝焼けはなぜかわくわくしてしまう。これも全て、私を形作る、記憶のなせる技なのだろうか。
結局閉館間際までいた私が外に出たとき、一面の夕焼けだったといえば格好いいのだが、真夏の太陽はまだ、高い。そのまま宮ノ森に足を伸ばす。
『edb』でティタイム。紅茶とアップルパイと文庫本で優雅な時間を過ごす。
Sのように『歴史ライブラリー』など紐解けばまさに文化的なのだろうが、ま、ヤングアダルト系ファンタジーでお茶を濁させてもらおう。
しかし、今日ではないが、ここで一心不乱にノートパソコンを打ち込んでいた40代の男性。彼はどんな思いでキーを叩いていたのだろうか?
おそらくは今の私のように、格好いいつもりでいたのだろうか?
しかし、真面目にモバイルマシンが一台欲しい。SのようにIBMのTP−560を持ち歩く気力はない。Tのように東芝のリブレットの古いマシンを肌身離さず持つ必要もない。冴速氏のようなカシオのカシオペアを颯爽と持つのがいいのだ。
もう少し小さければ、NECのモノクロモバイルギアあたりが丁度いいのだが。
思いついたときに思いついた場所で、このサイトの原稿を書き込む環境が欲しいのだ。
そう思って苦笑する。
初めて一年以上。どうもこのサイトを中心に人生が廻っているような気がしてくるではないか。
どうも、私の文化的とはこの程度らしい。
『edb』帰りがけ冷えた麦酒を買って帰る。シャワーの後のこれだけが夏の特効薬なのだ。(00,8,8)