fg呆冗記
呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。


夜の大通り歩いて考えた

 職場の飲み会の後で、大通りの街を歩くこととなった。残念ながら、大通りのビアガーデンのラストオーダーは終わった時間である。母親から借りた自転車で大通り近辺を走っているとふと、昔の記憶がよみがえってくる。
 「このあたりに、『スラム』があったよな」
 そう思った。夏の夜のなま暖かい陽気と、一次会で飲んだ麦酒と、二次会で飲んだ日本酒(ポン酒と略するのが我が大学の通例であった)がそんな思いを私に抱かせたのかも知れない。

 このあたりに、その昔、よく飲みに行った店がある。地下への細い階段を下りると大音響の音楽が迎えてくれる店だった。
 小さなショットグラスに注がれるウィスキー。 油の焼けたようなピーナッツ。しかし、私たちにとっては最後の〆に欠かせない店だった。チャージはない。ショットグラスは小さくてもその一点で充分お釣りがきた。私が『フォア・ローゼズ』の普通とブラックの区別が付くようになったのは、たしかこの店だったはずだ。
 そして音楽。空いているとき、カウンターの中の兄ちゃんと、カウンターのこっちがわの我々の間での意志疎通が確かにあった。
 ショットグラスを頼んで音楽に耳を傾ける。その曲がアルバムの最後に近い場合。次のショットグラスを頼む客に、次のアルバムを要求する権利があったのだ。時に、そのアルバムはビートルズであり、ローリングストーンだったりした。一度だけ、私はビートルズのアルバムの後にディープパープルの「紫の炎」のリクエストに成功した記憶がある。
 いや、それだけではなかったはずだ。彼女を持たぬ我々の知るところではなかったが、その店には「個室」があると言われていた。彼女と二人で来て、ショートカクテルを数杯。そのまま個室へ・・・。
 残念ながら私も、この店を教えてくれた男も個室の利用はなかった。いや、もしかしたら男は個室を利用したことがあるのかも知れないが、私の前ではその事実を明かしたことはなかったし、私は何よりも彼女がいなかった。
 そんな記憶である。

 しかし、その店は経営者が変わったのか店の名を変えた。『ゲットー』 ユダヤ人収容所。
 この店を教えてくれた男はその後も通ったようだが、私は通うことをやめた。友人Sが言うところの
 「『スラム』には行って、『ゲットー』には行かないとは中途半端だな」
 という批判を受け入れたからではない。
 当時の無知な私にとっても、ニューヨークの「スラム」には足を踏み入れても良かったが、ユダヤ人収容所「ゲットー」の悲惨さは無知ながら知っていたのだ。
 男はその後もその店に通っていたようだった。
 今にして思えば、あの、致命的な事件以前に、彼と私の間には大きな亀裂があったのかも知れない。

 ま、おそらくは、数代経営者は変わっているだろう。この不況だ。
 いや、つぶれているかも知れない。だったらその跡でも拝んでやろう。
 私はそう思っていた。思い出の場所の店の跡の前で缶ビールを飲むのも悪くない。
 酔った私はそう思って大通りのあたりをさまよった。灯りの消えた大通公園近くを何度も自転車で行ったり来たりを繰り返したのだが・・・。結局、その店の残滓すら、私の前に現れることはなかった。まるで、煙のようにその店とその店が地下にあったビルは姿を消していた。
 あの、幾晩かの記憶は夢ではなかったはずだ。そう思いながら、私は深夜の大通りを後にしたのだった。
(00,7,24)


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