呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。
時間の流れを考えた
実際問題として、既に約35年間この世に生きていると紆余曲折がいろいろある。おそらくは二度と足を踏み込むはずのない場所。過去に入り浸り、現在は何度か心に思い浮かべながら、なかなか行けないうちにおそらくは消えてしまうであろう場所。そんな場所がままあるのだ。
幸いにしてまだ、そんな場所はそんなに多くはないが、変化は確実に起きている。
『明治の館』というビアホールがかの昔、存在した。サッポロビールのライオン系列だったが、居酒屋風で何よりも勘定が安かった。大学時代の一次会とはすなわち『明治の館』だった。今でも眼を閉じると想い出す。ハイカラポテトをむさぼり食っていた友人N。東京から帰ってくるたびにホッケの開きを注文していた友人M。もしかしたらもう、会うこともないのかも知れない友人達との共通した時間を過ごした店はしかし、今は存在しない。
時間は確実に流れているのだ。
その日、私は『CE』で酒を呑んでいた。
一杯のアイリッシュウイスキーと、もう一杯のコーンウイスキー、そして、最後のマティーニが、懐かしい店へ私を誘ったのかも知れない。
雑居ビルの中にあるその店の名は『P』、友人Sが先だって、朝まで冴速さんと呑んでいたという店である。
そして、私の幾ばくかの時間をあの店の床は吸い込んでいるはずだ。
酔って鞄を忘れて、自転車で全力疾走して取りに行った思い出(当然、飲酒運転で、道交法違反だ。現在はそんなことをする気もないしする体力もないだろうが・・・)やスモークオイスターとウォッカでべろんべろんになって、翌日、一日中布団から出られなかった思い出。今はない鶏肉の唐揚げゴマ風味は絶品だった。
私たちは『P』で凍ったウォッカというとんでもない美女と出会い、すっかり魅了されてしまったのだ。
そして幾星霜。最近はとんとご無沙汰だった。店の雰囲気が1人では行きにくいことと、どうも、体力的にウォッカのがぶ飲みが出来なくなったことが主な理由かも知れない。
ただ、『P』のマスターが入院して、店が閉まっていたということは、友人Sから聞いていた。
店は開いていた。しかし、マスターはいなかった。
店の雰囲気は前と同じだった。しかし、何か違和感が存在していた。
カウンターの中でもう、自分より絶対に若いアルバイトのお姉さんがてきぱきと立ち働いている。
時代が変われば客層が変わる。それは当たり前のことだった。
ウォッカをストレートで。
その注文に凍った瓶が冷凍庫から取り出される。
残念ながら、凍ったウォッカのボトルキープは随分と前にやめてしまったことはSから聞いていた。
『だからって、この店でジントニックはないよな』
私は大きめのショットグラスになみなみと注がれたウォッカの3分の1ほどを喉に放り込むと呟く
カウンターで隣の10年前の私たちが、グラスの中のレモンをマドラーでつぶしながら彼らの話題に興じている。
時折、自分たちでつくるジントニックは絶対に薄い。
この店はマスターの最初の自分の店。そして、私たちは客としては第2世代となる。第1世代は、近くの今はないビルで雇われマスターをしていた頃からの客だ。
そういえば、ジンやラムをロックで呑んでいた彼らの前で、我々はウォッカを呷っていた。
彼らも「この店でウォッカはないよな」そう思っていたのだろうか。
翌日も早朝から仕事の私は、ショット1つで席を立った。
時間は確実に流れている。そして、人は時間に置いて行かれるのか。
「?」
ビルの階段を下りる途中で、40代の男性とすれ違う。
見たことのある顔だ。
私は1人笑みを浮かべるとビルを後にした。
その顔は10年前、ジンやラムをロックで飲んでいた顔。
まだまだ『P』で我々第2世代もウォッカを呷っていても良さそうだ。
時間に置いて行かれるかどうか、決めるのは私たちなのだから。(00,7,21)