呆冗記
呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。


今日は成人式・・・

 いやあ、今日は成人式である。
 しかし、ガングロで白い瞼に、白い唇。白い髪に、黒い爪で振り袖を着るとああも恐ろしい代物になるとは・・・。
 真面目に恐れ入谷の鬼子母神である。
 人間食わなくてもいいものがあるように、見なくてもいいものもあるのだ。
 が、今回はこのネタではない。(既に数回やっているし)

 「成人式の抱負を語っていただけますか?」
 そう、TVのインタビュアーに聞かれた青年が爽やかに答える。
 「いやあ、今日から、禁酒・禁煙しようかと・・・」

 使い古された寒いジョークで申し訳ない。しかし、現在において、成人式というものは非常に曖昧なものと化しているのではないであろうか。なぜならば20歳になってからの特別な事象というのは選挙権くらいしかないのである。
 車の免許は18歳。個人の意志で結婚できる年齢は男18歳、女16歳。酒やタバコは20歳になってからというが、少なくとも私の記憶では大学のコンパで、未成年である1、2年生がウーロン茶を飲んでいたという記憶はない。
 要するにほとんどの事象が18歳を区切りとしているのだ。ならば、この20歳の成人式というのは根拠が限りなく曖昧になるのではないか。
 戦前の日本のムラ社会の場合をみると、肉体的に成熟するほぼ15歳から18歳で成年式を迎えることが多かった。成人式を迎えるためには、当人が農作業や山林労働や漁労活動について、一人前の労働能力があるかを示すことが必要であったのだ。一人前の仕事ができることを示した若者は、ここで初めて共同労働や利益分配についても一人前に数えられ、神事への参加資格ができ、ムラの政治的会合への出席が義務づけられると同時に、結婚の資格を手にすることができたのである。
 ところがだ、現在においては個人の肉体的成熟と社会的資格の獲得に大きなずれが生じてしまった。身体は一人前になっていながら社会経済的にはひとり立ちできないという不均衡が、青年の間に不安感を増大させる一因となり、結果として青年層の不安定な状況を産みだしている。というのはよくある青年心理学の論法である。
 さて、このことについてあんまり突っ込むと35にもなって結婚もせず、親元から勤務している自分の首を自分で絞めかねないのでこの辺にしておくが、少なくとも20歳の成人式の根拠が非常に薄弱になっていることは間違いない。そして、今年からの「成人式は第二月曜」という日付がころころ変わる新体制である。これがますます成人式の意義をうすめつつあるのではないだろうか。これからの日本を背負って立つ若者の門出があまりにも悲しいのではないだろうか?

 しかし、既に共通一次試験を成人式にやりだしてから、成人式の意義というものがひたすら曖昧になり始めたとするならば、今に始まったことではないのかもしれないが・・・。(00,1,10)


backindexnext