呆冗記
呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。


なんだかとってもたれぱんだ

 なんだか、とってもだるい。
 やる気が全然起きない。
 はあ・・・。ヘルスメーターが壊れていたなんて。非道い、非道すぎる。
 やる気が音を立てて崩れてしまった。それどころか世界へ向けて嘘データを流していたのだ。
 落ち込む・・・。
 そんなこんなでたれぱんだである。
 すっかり気に入ってしまった。絵本はないがぬいぐるみならある。350円のくじを引いたら4等であたった代物だ。今、寝床にキーボードを引き込んで机のディスプレイを見ながらぽしょぽしょとこの文章を打っているのだが、そんな私をやる気のなさそうな目で見てくれている。
 なんというか、そのうつろな目がいい。哲人の目である。(誉め過ぎか?)
 「人生いろいろあるんだよ」
 そうで言いたげにたれている。
 そうだよな。「事実はひとつだが、真実は人の数だけある」とは友人Sの言葉(もしかしたらあいつが孫引きしたのかもしれないが)だが、起こった事は唯一だが、それを見た人間によって捉え方はいろいろあるのだ。きっと。
 このぶざまにたれた私の腹は一つだが、これをスマートと認識したときには必ず反対する、それをデブとする価値観もまた生じるわけだ。渡辺徹よりはやせてるはずだし・・・。友人Tの身長もまた一つだが、それを大柄なおじさんと取る人間もいれば、小柄な兄ちゃんと受け止める人間もいていいのだ。そうなのだ。
 私の体重はひとつの数字だ。しかし、壊れたヘルスメーターを通して、事実としては誤っているが私にとっての真実が与えられたのだ。
 むろん、そのヘルスメーターから与えられた情報を鵜呑みにした私にも非はある。要するに情報ソースの確認を怠った私の間違いは間違いである。このことについては良く反省しなければならない。一般的に言っても、果たしてその情報がどんな意図の元に流されているのか、それを良く確認しなければならないのだ。たとえるなら、A新聞とY新聞の記事や読者欄を見るとまったく違った国に住んでいるようではないか。
 巷に氾濫する真実の情報の海から、それぞれの意図を見抜いて行かなければならない。そして、自分のなかで事実を再構成する能力。それがこれからの情報化社会において必要な能力なのだ。
 おっしゃあ、自己弁護終了。ビールとウィスキーでピザでも喰って、明日からまたがんばろう!
 (99,8,5)

補足
 今回の呆冗記から「ネタがないけどなんとかして1回話を作り上げよう」と言う意図を見抜かぬこと。
 最後の文章から、「こいつ、本当にダイエットする気あるのか?」と思うだけならいくらでも思って可。
 今回の呆冗記のどこが「なんだかとってもたれぱんだ」なのか、私もわからないのだ。


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