やあ、また俺の話を聞きに来てくれたか。大した持てなしはできないが、まあ茶を飲むなり珈琲を飲むなり楽にして聞いてくれ。



 ところで人間にとって、コンビニとは便利なもののようだな。
 今回はコンビニの話だ。





第二話


 コンビニの便利なところは、ちょっとした用事の時に、すぐに立ち寄れることだろう。田舎でもない限りそこらに一軒はあるだろうし、日用品なら文房具やトイレットペーパーから、果ては線香やロウソクまで揃っている。これなら、じいさんやばあさんがポックリ逝ってしまっても安心だ。
 だが俺が気に掛かけていたのは、ずっと店を開けていることだった。真夜中まで煌々と明かり灯しているのはご苦労なことだが、俺にはそんな時間まで店を開けている理由が分からなかった。どうせ店を開けていても客は少ないに決まっている。9時や10時で閉店させるスーパーの方がよほど合理的だと思えたんだ。
 だが重じいさんは違った。俺が、なぜコンビニは四六時中店を開けてるのか聞いてみると、重じいさんはこう答えた。
「コンビニとはなんぞや」、と。
 俺は始め、重じいさんがコンビニのことを知らないのかと思ったが、じいさんに限ってそんなことはあり得ない。そこで俺は考えた。さては重じいさん、コンビニとはどんなものなのかを、もう一度考えてみろと言いたいんじゃないかと。
 先程も言ったが、コンビニのウリは何と言っても便利なことだ。要は、それが俺に与えられたこの試練の鍵なんだ。24時間営業ということは、行きたいと思ったときに必ず開いていると言うことだ。しかもたいていの物は手に入る。「何か欲しい物があったその時に、そこに行けば手に入る便利な店」。便利さこそが、きっとコンビニの最大のウリなのだろう。
 おおっ、さすが重じいさん。きっとこんなことは始めから知っていたに違いない。燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや! 俺はまだまだ足下にも及ばないな。
 ちなみに今の諺(ことわざ)だが、燕雀とは小さな鳥のことで、鴻鵠は大きな鳥のこと。つまり、小人物は大人物の考えは分からない、という意味だ。俺も早くツバメやスズメから成長したいと切に願っているよ。
 ところで諺といえば、あれもどうにかならないものだろうか。
 例えば「猫に鰹節」。猫の近くに鰹節を置いておくとすぐに取られることから、油断できないことという意味だ。だが俺達は、そこまで食い意地が張っているように見えるんだろうか? 試しに鳩の近くにパンのかけらでも放ってみればいい。あいつら、パンのかけら一つに血相を変えて我先にと争奪戦を繰り広げるではないか。今度からは「鳩にパン」とでも言って欲しいものだ。
 そして極めつけは「猫ばば」である。猫は排便後に砂をかけることから、悪事をしても知らぬ顔をしていること、また拾い物をこっそり自分の物にしてしまうという意味らしい。何をどう解釈したら、大便に砂をかけることと結びつくんだ? ちゃんと砂をかけてるんだから、いいことなんじゃないか? 脳味噌を4回転させた後、2回転ひねりを加えたとて思いつきやしない。
 諺を考えるときは、もっと慎重に検討して欲しい。
 それからこれも蛇足だが、ほとんどのコンビニの店先はガラス張りになっている。その向こうにあるのは、必ずと言っていいほど雑誌が並んでいるコーナーだ。ちょっと近所のコンビニを思い出してみるといい。そうなっているはずだろ?
 俺の考えはこうだ。一番買い物客が立ち止まるのが、雑誌のコーナーで立ち読みをしているときであろう。つまり、そこに客がいる確率が一番高い雑誌のコーナーを外に見える場所にもっていくことで、あたかも客が入っているようにいつも見えるというわけだ。俺の考えが正しいとすると、なかなかの知恵である。






 さて、俺がなぜコンビニの話をしたかといえば、俺もしょっちゅう世話になっているからだ。とはいえ、俺が白昼堂々と店員にキャットフードを差し出す姿を想像しないで頂きたい。いくらなんでもそんな無茶はしないよ。
 俺はよく店先に腰を下ろしている。そこで人間のやって来るのを待って、食い物をねだるわけだ。かといって、別に食い物を恵んでもらっているわけではないからな。あくまでも、俺はお裾分けしてもらっていると思っている。野良猫生活にとって食い物の確保は、避けては通れぬ問題なんだ。
 まあ俺達だって自分で食い物ぐらい採れる。その辺の虫を捕まえて食べることもあるが、それだけでは腹は膨れないし、いつも獲物にありつけるとも限らない。自然は厳しいんだ。知恵とは使うためにあるものなのだよ。
 俺が店先にいるのは、だいたい人間のメシ時よりもちょっとずれた時間だ。
 確かにメシ時なら客も多いし、確実に食い物を持っている。だがこの時間の客はせっかちでいけない。どうも早く職場に帰って飯を食べる以外頭の中にないらしく、営業スマイルで待っていても虚しい一人芝居を続けるだけだ。
 その点メシ時より過ぎた客だと、のんびり食べようかと思っている客が多い。だから俺のことにもすぐに気付いてくれるし、特に女性客は狙い目だ。ダイエットにちょうどいい機会と、おれに一品分けてくれることが度々ある。
 でも本気でダイエットを考えているなら、袋の中のケーキをくれてもいいのだろう。そっちの方がよほどカロリーは高そうなのだが、ケーキの一つぐらいと高をくくっているのだろう。今日ぐらいケーキの一つでもとか、ダイエットは明日からと思った時点で、すでに終わっている。まあ俺も甘い物よりおにぎりの方が好きだから、良しとしているが。
 他にもコンビニでメシをもらうコツはまだある。それは、同じコンビニにいつまでもいないことだ。
 同じコンビニでずっと食い物をお裾分けしてもらっていると、やがて店員の耳にも入ってしまう。こうなると追っ払われてしまうのがオチで、なかなかそのコンビニには行きづらくなる。こうなっては美味しい食い物にもありつけない。
 そこで俺は、何軒かのコンビニをハシゴするようにしている。今はそう遠くない距離にコンビニが何軒もあるから、のんびり散歩がてら移動すれば、十分メシ時に間に合うんだ。
 こうすれば店員に警戒される心配もないし、なによりコンビニによって弁当も千差万別だから飽きが来なくて済む。今日はあそこのコンビニにしようかとか、久しぶりにあっちのコンビニに行ってみたいとか、メシの時間が待ち遠しくなるんだ。
 このようにコンビニとは、俺のような野良猫には有り難いものなのである。




 ここいらで、俺がコンビニのおにぎりを食べたときの事件を話そう。
 あれは暑い夏の昼下がりだった。俺はその日、始めていくコンビニの前に腰を下ろして客を待っていた。なんでもこのコンビニの社長は根っからの猫好きらしく、名前までそれにちなんだものに変えてしまったらしい。それ以上に俺が興味を持ったのは、このコンビニで新発売されおにぎりがすこぶる旨いらしいという噂を聞いたからだ。
 俺が客を待つときは、毛繕いでもしながら待っていることが多い。こうすれば客の注意を引くことができるし、何より印象がいい。ただ突っ立っているだけなら招き猫にだってできる
 まず店から出てきたのは、まるでゴリラを思わせるような中肉中背のおばさんだった。いかにも古そうな薄い緑色のシャツに、ゴムの伸びきったスカートを履き、頭はオバサンパーマという、近所に一人はいそうなほど典型的なおばさんだ。
 俺は一抹の不安を覚えつつ、とりあえずそのおばさんに声をかけてみた。
「ニャ……」
「なんだいこの猫。まさか今晩のおかずを狙ってるんじゃないでしょうねぇ。嫌だわ〜。全く最近の野良猫は人様から食べ物をねだろうなんてあつかましい。あっち行きなさい、シィッ!」 
 俺の姿を見るなり、自分の食い物を横取りするなとばかりに髪の毛を逆立てて吠えてきた。まるでボス猿だ。迫力が違う。だが、そっちこそ夕飯のおかずをコンビニの冷凍食品で揃えるなと言ってやりたい。子供が可哀想だ。
 さい先は最悪だった。そんな日はついていないことが多い。
 次に店から出てきたのは、制服を着たOLだった。俺の経験と勘から、20代中盤から後半と見た。一番ダイエットに関心のありそうな年代だ。
 俺は早速アタックを開始した。
 まずニッコリ笑顔を浮かべながら、「ニャ〜ン」と声をかける。人間も猫なで声という言葉を使うが、やはりこの声は異性の気を引くのには効果覿面である。
 OL女は俺を見つけると、すぐに近寄ってきてくれた。脈ありだ。
 ここでポイントなのが、必ずコンビニの袋を物欲しそうに見ることだ。ただ鳴いていただけでは、こちらが食い物が欲しいのは分かって貰えない。ただあまり極端にやると品のない猫のように思われるから、注意も必要である。このあたり、可愛らしくねだるのには長年の経験と技術が必要だ。
 だが彼女は困ったような顔をすると、「ごめんね、スパゲティーだからあげられないの」と言って、頭を撫でて行ってしまった。それなら仕方ない。スパゲティーを分けるのも面倒だろうし、猫舌なんて言うように俺達は熱いものが苦手なんだ。それにすぐに食い物が貰えるとも思っていないし、申し訳なさそうな顔をしただけでも、彼女が思いやりのある娘だと分かる。
 ああいう娘に会うとこちらも気持ちがいい。先程の問答無用で罵倒してきたボス猿とは大違いだ。爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。まあ、食い物をねだりに来たのもあながち間違いではないんだが。
 次にやってきたのは、おそらく学生であろう。青いTシャツにジーパンというラフな格好に、ノートがたくさん入ったクリアケースというスタイルであった。しかもTシャツを見てみると、背中のところに大きく猫のイラストがある。猫好きな証拠だ。
 そして右手に持っているビニール袋を見ると、中にはおにぎりとおぼしき塊がいくつも入っていた。いよいよもって脈ありありだ。俺は再びアタックをかけた。
 俺は「ニャ〜ン」と声をかけると、すかさず足にすり寄った。相手が猫好とあれば、これぐらい大胆なアプローチの方が効果的だ。
 狙い通り彼女は俺のことを見るとパッと表情を輝かせ、顔と言わず身体と言わず、声を上げながら撫でてくれた。ここまで熱烈な反応をしてくれれば、しめたものである。
 俺はビニール袋に鼻を近づけ、いかにも物欲しそうな視線を送った。すると彼女に俺の心が通じたのか、「おにぎりが欲しいの?」と言ってくれた。
 さすがは猫好き。きっと猫の扱いになれているに違いない。俺達猫は人間の感情をその表情の変化から察することができるが、人間も俺達の気持ちを理解できる者達がいると俺は思っている。
 彼女がビニール袋から出したおにぎりは、「エビしょうゆ」だった。このおにぎりこそ、俺が待っていたものだ。
 口の中によだれが満ちていくのを感じながら、俺は一口かぶりついてみた。こってり醤油味のエビが具として入っている。それがまた白いご飯と合って、頬が落ちそうなほど旨い。あの時は涙が出るほど嬉しかったよ。
 好きなおにぎりも食べられたし、猫好きの女にも会えたし、そんな時は誠に気分爽快だ。俺は食後の散歩でもしようかとコンビニを後にした。
 だがそんなときだ、不意に腹が締め付けられるように痛くなった。そして次の瞬間には激しい便意が。俺ははたと思った。こいつはもしかして、腹痛ではないかと。
 もしそうだとしたら原因なにか? 俺は別に腐った物なんか食べてはない。ということは考えられるのは一つ。あのおにぎりしかない。しかしあの彼女がくれたおにぎりが原因だとは、にわかに信じられなかった。
 けれども、そう考えている間にも尻の穴は激しく刺激される。何はともあれ、これを出さないわけにはいかない。
 おっと、ここで一つ断っておくが、俺達野良猫とてどこでも見境無しに用を足すわけではない。動物はいつもその辺に勝手にやっていると思われるかも知れないが、俺達にだってデリカシーはある。考えてもみてくれ。野良猫や野良犬がそこらじゅうで用を足したら、道ばたは俺達の出したもので埋め尽くされてしまうだろう。
 とにかく俺は道の反対側にある路地にでも行こうとした。しかしここから、俺の今世紀最大の死闘が始まることなった。
 まず一歩踏み出すたびに、腹の中がゴロゴロとうねる。まるで「変な物を食うんじゃない」と暴れ回っているようだ。そして尻の穴付近では、外に出ようとする物体と、俺の括約筋(肛門を開閉するための筋肉)が激しいせめぎ合いを演じている。
 それはまるで火山のようだった。腹の中に溜まったマグマが、いつなんどき大噴火を起こすか分からない。だから俺は、細心の注意を払いながら慎重に歩を進めた。一瞬の油断が命取りのなる。俺はそう心に言い聞かせた。
 きっと端から見れば、電池が切れる寸前の玩具のようにぎこちない姿だっただろう。そんな俺の姿が滑稽に見えたのか、遠くからガキの笑い声が聞こえてきた。目を合わすともっと恥ずかしくなるので無視しておいたが、きっと指を指して嘲笑しているに違いない。畜生ぅ……。
 だが、人通りの比較的少ない昼メシ時を過ぎた時間帯だったのは、まったくもって幸運だった。これが昼メシ時だったら、あんなじいさんみたいにノロノロと道路は横断できなかっただろう。誰かにぶつかったショックで催してしまい、末代までの恥をさらすのがオチだ。
 でも道の反対側までのわずか数メートルが、あれほど遠く感じたことはなかった。遙か黄河の対岸のように思えたよ。いつもならひょいひょいと跳んでいける距離なのだが、あの時はそんなことをすれば、別の黄河を作ることになっていたことだろう……。
 すまんな、なんだか今回は品のない話になってしまって……。
 さて、道も半分ほど来たところだった。突然俺の耳元で「キキィッ!」と全身の毛が逆立ちそうな音が鳴った。慌てて首をひねってみると、そこには目と鼻の先に車のタイヤがあったんだ。
 あれは恐い。さしもの俺もあの時ばかりは立ち尽くし、身が半分顔を出しかけた。車は俺の髭をかすめて通り過ぎていったが、あの時はさすがに生きた心地がしなかったよ。
 車に乗った男は「危ねぇじゃねぇか!」という言葉を吐いていったが、それはこっちの台詞だ。あいつらの不注意のせいで、何匹の仲間が死んでると思ってるんだ。
 しかもあの時の俺は腹の中にとんでもない爆弾を抱えているんだぞ。車に轢かれるだけならまだしも、アレをぶちまけて死んだとあったら、俺は、俺は……。末代までの恥ばかりか、猫の祖先達にあの世で袋叩きにあってしまう……。
 でもまあ轢かれずには済んだ。俺はホッとため息を付き、視線を上げた。だが目指す道の反対側には、母親に連れられた子供の姿があった。
 黄色い帽子を被っているから、幼稚園児だろうか。スカートを履いているので女の子だとは思ったが、まるで力士をそのまま小さくしたような図体をしていた。愛嬌があるといえばお世辞にもなろうが、園児としては規格外のその体格は、幼稚園の制服とはあまりにも不釣り合いだった。
 女力士候補の女の子は、明らかにこちらを興味ありげに見ている。とりあえず俺は辺りを見渡してみたが、子供が興味を引くようなものといえば俺だけ。はぁ……。
 しばらく視線を合わせていたが、どうにも立ち去る様子はなかった。俺は斜めに歩いてみたが、まんじゅうのように膨れた頬の上にある細い目は、しっかりと俺を捕らえて逃さなかった。
 こうなってはもう一か八かだ。腹をくくって、神に祈りつつ先に進むしかない。俺は一歩前足を送った。その途端、女力士候補の瞳に星が輝いた……。俺はさらに一歩進む。女力士候補の瞳がさらに輝きを増し、もう一つ星が増えた。女力士候補は片時も俺から視線を離さない。あれはもうダメだった。
 そこから、道の反対側まで行くまでの時間がどれ程長かったことか。まるで断頭台に登る囚人のような気分だ。女力士予定が浮かべる笑みが、まるで死刑執行人の冷笑のように思えてくる。足を踏み出すたびに、まるであの世に旅立つための一歩のように感じた。
 そして俺は、とうとう道路を渡りきった。最後は俺も、便意を堪えているのを忘れるほどの緊張感に包まれていたよ。だが見上げると、女力士予定がそびえ立っている。
「わー、かわいい猫さん」
 案の定、女力士予定は俺の身体を撫でてきた。いつもなら嬉しいところだが、今はいつマグマが爆発してもおかしくない非常事態。俺はわざといかつい目をして緊急避難勧告を出しているのだが、無邪気な女の子には全く通じなかった。
 それならばしょうがない。俺は嫌がるようにして身体を振るわせた。女力士予定は相変わらず俺の身体を撫でてくるが、嫌がっている素振りを見せれば母親が止めるだろう。
「あれ、この猫さん暴れてるよ?」
「じゃあ、撫でるのはその辺にしておいて上げなさい」
 そうそう。母親らしく止めてやってくれ。
「なんでぇ?」
「きっと次は抱っこして欲しいって喜んでるのよ」
 おーい……。
「ちょっと待ってなさい。いま抱っこさせて上げるから」
 そう言うなり、母親は俺の腹を抱えて持ち上げた。なんて持ち方をするんだ。よく猫の腹を持って抱える人間がいるが、あれはやめて欲しい。自分も腹だけを固定されたまま吊された姿を想像していただきたいが、苦しくてしょうがないんだ。
 しかも今は腹を刺激されるのが一番ツライ。俺はさらに暴れてみたが、母親は「当たっていたみたいね。もっと喜んでいる」と誤解に誤解を重ね、十階建ての勘違いを完成させていた。
 俺を渡された女力士予定は、それこそ土俵の上で相手と組み合う力士のように俺を抱えた。俺は、あの女力士確実の家にあるであろうぬいぐるみに同情する。きっとろくな扱いを受けていないに違いない。
 こうなったら最終手段である。小さな女の子を怖がらせるのも忍びないが、実力行使に出るしかない。
 もしかしたらあんたも猫に引っ掻かれた経験があるかも知れないが、俺達だって脅かされれば驚くし、嫌なものは嫌だ。猫は気が荒いと勘違いされることもあるが、そうでもしない限り意志が通じないのだから仕方がない。いくら子供とはいえ、その辺はビシッと教えてやらねばいかん。
 俺は「ミ゛ヤー」と鳴いて女の子の手を少し引っ掻いた。だがあの女の子、手を離してくれるものだと思っていたら、「ぎゃあ」と叫んで俺を振り落としたんだ。俺はつくづく乱暴な女の子に後悔した……。
 猫がいくら運動神経が良いといっても、いきなり投げられてはどうしようもない。しかも相手は背の低い幼稚園児うえに女力士確実。道路にたたきつけられるのは、当然と言えば当然の結果だった。
 その一撃が、尻の穴付近で行われていた一触即発の均衡の上に、非情な鉄槌を下すことになった。もはや俺の力では押さえきることはできない。
 俺は脱兎のごとく路地裏に駆け込むと、すぐそこにあった空き地の草むらの中に飛び込んだ。そこまでもっただけでも奇跡に近いほどの偉業だ。火事場のくそ力という言葉が妙に頭に着いた。






 とまあ無事とは言えないまでも、俺はなんとか用を足せたわけだ。それから後のことはあまり思い出したくもないな。腹痛は嵐の時の波のように何度も襲いかかってくるし、水のような下痢が止まらない。
 ようやく落ち着いたのは、日が暮れることだった。その頃には、捨てられたぬいぐるみのように草むらの中で朽ち果てていたよ。すると近くの家から、夕方のニュースが流れて来た。その中で女のキャスターがこんなことを言っていたんだ。
「今日の午後、コンビニエンスストアチェーンの阿部内ストアを利用した買い物客が、腹痛や下痢を訴え病院に運ばれました。検査の結果、このコンビニエンスストアで新発売された「エビしょうゆ」おにぎりに入っていたエビが原因と分かりました。このチェーン店では海外からエビを取り寄せおり、そのエビに菌が混ざっていたものと考えられています。また調査を進める中で、衛生管理の面でもずさんな管理体制であったことが判明し、事件はさらに大きくなりそうです。なお被害は店舗のある関東地方に集中しており、現在までに100名以上の利用客が同様の症状を訴えて入院しています。阿部内ストアの阿部内猫之(あぶない ねこの)社長は先程記者会見を開きいて謝罪をすると共に、安全が確認されるまで同店でのおにぎりの販売を中止することや、自主回収を進めることを発表しました。同店でおにぎりを購入された方は十分にご注意下さい。
 続いては天気です…」
 俺はその時こう思った。
 被害者に猫を一匹加えてくれ、と……。



おしまい……




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