俺たち野良猫の間には、野良猫同士のネットワークのようなものが存在する。
 その一つが、猫会議である。夜に駐車場とか公園とかに猫が集まっている光景を見たことがあるかも知れないが、あれがいわゆる猫会議なのだ。
 俺たち野良猫がああやって集まる目的はいろいろあるのだが、目的の一つは猫同士の顔合わせと情報交換である。その地域に住み着く猫同士が集まることで、どんな猫が自分の周りに住んでいるか確認しあうことができるし、様々な情報を仕入れることができる。
 流れ猫の情報なども、この猫会議で話題に上ることが多い。誰かが新参者を見つけた場合、猫会議を通じてその情報は他の猫たちにも伝わるのだ。
 流れ猫の情報というのは、実は極めて重要なのである。
 まず第一に、新入りが増えるということは、それだけ食い物を食べる口が増えるということである。そうなると、限られた餌場の中で食い物を探してる俺たち野良猫にとっては、新しい競争相手が増えるわけだ。競争率が高くなるわけだから、その分食い物が手に入る確率も少なくなる。食料問題は最重要事項である俺たちにとっては、無視できないことなのだ。
 第二に、仮に新入りが危険そうな猫であった場合、その危険を仲間の猫に知らせることができる。危険な猫というのは、例えば喧嘩っ早そうな猫などである。そういう猫が入ってきたことを事前に知っておけば、警戒もできるというわけだ。
 このように流れ猫の情報は、自分たちの生活を守る上でとても重要なのである。
 そしてある夜、そんな流れ猫の情報が俺の耳にも入ってきた。見慣れぬ銀色の猫が、この辺を歩いていたというのである。腹を空かせていたような感じで、よろよろと歩いていたらしい。
 それから二日後、その見慣れぬ銀色の猫は、俺の目の前で倒れていた……。




 


第十四話


 それは、俺が散歩の途中での出来事だった。人間一人がやっと通れるぐらいの細くて暗い路地を歩いていたら、突然目の前に倒れている猫が現れたのである。
 もしや行き倒れているのかと思って恐る恐る前足でつついてみたら、その猫は「ううん」と低く唸った。幸いにも生きていたのである。
「おい、大丈夫か?」
 俺は声をかけてみた。
「うう、どなたでしょうか?」
 顔を上げると、俺とあまり変わらないぐらいに思える若い猫だった。
「この辺りを住処にしている又三郎って野良猫だが、あんたこの辺りじゃ見かけない顔だな。もしかして流れ猫か?」
「え、ええ。住処としていました築地を追われ、流れ流れてこちらにたどり着いたのです。住処を追われてからというもの、何一つ口にしておりません」
「築地? あんた、あの築地に住んでいたのか?」
「左様でございます」
 とりあえず銀色なので、この流れ猫を”銀”を名付けておこう。銀は、若そうな割りには随分と畏まった言葉遣いをしているし、空腹で弱った様子ではあるが、その物腰は随分と落ち着き払っている。
「へぇ、良いところ住処にしていたんだなぁ」
 築地といえば、言うまでもなく魚市場が有名である。そこに住んでいればほぼ毎日のように新鮮な魚のおこぼれが手に入るわけで、野良猫の間では憧れ度ナンバーワンと言っていい場所なのだ。
「一体どうして住処を追われたんだ? 他の猫と喧嘩でもしたのか?」
 野良猫が住処を追われる場合、他の猫に縄張りを奪われたとか、いざこざを起こして縄張りを追い出されたとか、ほとんどがそんな理由である。
「一週間ほど前のことです。いつものようにわたくしは、魚屋の主人の目をかすめて大トロを頂戴しようと、店の前にやって来ました」
「それって、”盗み”って言うんじゃないのか……?」
 相変わらず落ち着き払った態度であるが、言っている内容は立派な盗みだ。
「こう見えてもわたくしは、高級魚だけを狙う猫として築地では恐れられていたのですよ。ふふっ」
 俺の言葉を無視して、銀は目を細めてニヤリと笑った。
「ですが、あの時は痛恨の失敗を犯してしまったのです。いま悔やんでも、悔やみ切れません」
 心の底から振り絞るように銀は言った。余程悔しかったらしい。
「あの時わたくしの目の前に、ずらりと大トロが並んでいたのです。さては天からの贈り物と思ったわたくしは、その中の一つをくわえました。しかし、そこには卑劣な罠が潜んでいたのです。なんと大トロはすべて作り物で、しかも接着剤が塗られていており、いくらもがこうにも口が離れませんでした」
 ……飛んで火にいる夏の虫とは、まさにこのことだ。
「ついにわたくしは人間に捕まり、築地から永久追放されてしまったのです」
 自業自得もいいところである。殺されなかっただけマシだ。
 あまり同情もできない猫ではあったが、腹を空かせていることには変わりない。俺は銀を助けてやることにした。
「一週間も何も食べてないんじゃ、腹減ってるだろ? 俺が助けてやるよ」
「よろしいのですか?」 
「なに、困ったときはお互い様さ。で、何が食いたい?」
「では、大トロを」
 即答だった。
「……あん?」
「ですから大トロを」
「ちょっと待て! 大トロなんて簡単に手にはいるわけないだろ! 俺だって食ったことないんだぞ!」
「わたしくはいつも食べておりましたが」
 銀はあくまでも落ち着いた態度である。
「あんたは別だ! いいかい、ここは築地じゃないんだ! 右を見ても左を見ても魚屋があるってわけじゃない!」
「大トロが無理でしたら……。そうですね、中トロでも」
「だから違うだろう! どこの世界に中トロを食って生活している野良猫なんているんだ!」
「あなたの目の前におりますが」
「……もう分かった。トロから、いや、魚から離れろ。魚以外で何が食べたい」
「助けると仰りながら注文の多い方ですねぇ」
「あんたがワガママ過ぎるんだよ!」
 だんだん頭が痛くなっていった。
「仕方ありませんねぇ……。では、ウニが食べたいです」
「…………」
「ちゃんと魚ではありませんよ」
「……あばよ」
 俺は銀に背を向けた。
「ああ、少々お待ち下さい」
 銀が俺を呼び止めたが、俺は無視して歩き始めた。
「あなたがわたくしを見捨てていくのはご自由です。ですが、最後に一言言わせてください。もしこのままわたくしを見捨てれば……」
 何だ? 一生呪うとでも言うのか?
「きっとあなた人気は地に堕ちるでしょうねぇ」
 なんだかとてつもなくイヤな言い方である。人気が下がっても良いから、一発ぶん殴ってやりたい気分だった。
 だがいくらいけ好かない奴でも、そのまま見捨ててしまう確かに白状である。俺は渋々ながら振り返った。
「分かった分かった。助けてやるよ」
「おおっ、本当ですか。やはりあなたは素晴らしいお方だ。あなたのご好意に対する感謝の印として、この心優しさ溢れる行動をわたくしが宣伝いたしましょう。又三郎様という黒猫は、空腹で苦しんでいたわたくしを助けてくれた。一度は猫の風上にも置けないぐらい、残酷にも、無責任にも、恥知らずにも見捨てながら、と……」
 どうしてこの猫は、素直に助けたいと思わせてくれないのだろうか……。
 俺は思った。こういうひねくれた野良猫には、現実の厳しさを教えてやらればなるまい。餌を探すのがどれほど大変なことかを分からせるために、俺が以前ヘビに襲われたゴミ捨て場に案内することに決めた。腹を空かしている猫に対して酷い仕打ちかもしれないが、ああいう猫は身をもって経験させなければ駄目なのだ。



 銀を見つけた路地からそのゴミ捨て場までは、さほど離れてはいなかった。
 ゴミ捨て場の様子はというと以前と全く変わらず、ゴミ袋がいくつか放置されていた。相変わらずそのアパートの住人は、ゴミを捨てる日を守っていないらしい。
「ほら、ここが食い物がある場所だ」
「まさか、ゴミ捨て場を漁れと仰るのですか?」
「当たり前だろ。食い物探しの基本だからな」 
 まず初めに、ゴミ捨て場を漁る上での簡単なレクチャ―を始めた。
「いいかい? アパートのゴミ捨て場には、こうやってたくさんのゴミが集まるんだ。特に狙い目なのは、ゴミを捨てる日を守らない人間の多いアパートだな。ちゃんとゴミを捨てる日を守らないと、こういう風にゴミ捨て場にゴミ袋が残っているんだ。ゴミ袋が残っていたら、その中から食い物があるか探すわけだが、くれぐれも周りを散らかさないように注意するように。ゴミ捨て場を荒らすと人間のガードが固くなって、簡単には食い物が手に入らなくなっちまうぞ」
「ゴミを漁るのは、少々気が引けますねぇ。いつも新鮮な魚を食べていたので、わたくしのお腹はとてもデリケートなのです。果たしてゴミを食べて大丈夫でしょうか……」
 つくづく一言多い猫だ……。
 ぶつくさ言いながら、銀は飛ぶような速さでゴミ捨て場に近づいていくと、素早くネットとネットの間に身体をねじ込ませて中に入っていった。さすがに盗みをしていただけあって、驚くべき早業である。
 だがこのゴミ捨て場の場合、問題はその後だ。例えゴミ捨て場の中に入れたとしても、想像もしないゴミを目の当たりにするのである。
「とりあえず、どれか一つゴミ袋を破いてみろ」
 俺が声をかけると、銀は目の前にあったゴミ袋を口で引っ張って破いた。
「おい、何か食い物はあったか?」
「うーん、魚の匂いがしますねぇ。この匂い、何か懐かしいような……」
「魚か、そいつは良かったな。俺の分は必要ないから、全部食べろよ」
 どうせ腐っていたとか、そういう魚に決まっている。いや、もしかしたら、実は新鮮な魚と見せかけて、がぶりと食いついたら骨の多い魚で、口の中に小骨が刺さるという展開かもしれない。だがそういうオチにいつまで陥る俺ではない。洒落ではなく。
「おお、これはわたくしの好物の大トロではありませんか」
 なにぃ!
「いやぁ、まさかまた大トロに巡りあえるとは思いませんでしたよ。先程は手に入らないと仰りながら、ちゃんと大トロが食べられる場所をご存知ではありませんか」
 一体あのゴミ捨て場はどうなっているんだ。大トロが捨てられているなんて、確かに想像もできない……。
「ちょっと待ってくれ! 大トロなら俺にも食わせてくれ!」
「えっ? もうわたくしが全部食べてしまいましたが」
 と言って引きずり出してきたのは、きれいに空になった容器だけであった。
「なんてこった……」
「わたくしはこちらの土地が気に入りました。しばらくお世話になります」
 かくして、一風どころか二風も三風も変わった新参者が加わったのである……。




おしまい……




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