動物の鳴き声が理解できたら良いな。
そんなことを思ったことはないだろうか。
目の前で「ニャーオ」と鳴いている猫が今どんなことを語りかけているのか、或いは思っているのか。知りたいと思ったことはあるかも知れない。
だが現実には、猫が人間の言葉を喋ることは不可能である。道端で猫を撫でて、いきなり「なにすんじゃい、ボケ」と言われたら、恐らく腰を抜かすことだろう。
でも猫の気持ちがなんとなく分かるという場面は、少なくないのではないだろうか。
例えば猫に餌をあげて「ニャーオ」と喜んだら、「美味しい」とか「ありがとう」って言ってるのかなと思うだろう。
猫を撫でて「ゴロゴロ」と喉を鳴らしたら、「気持ち良い」って言ってそうだなと感じるかもしれない。
俺たち猫は、人間の声や表情からその人間の感情がある程度分かる。それと同じように、人間も猫の鳴き声や仕草から、そのときの猫が嬉しがっているのか、怒っているのか、寂しがっているのかを想像することができると思う。それは俺たち猫が、人間にとって身近な存在だからでもあるだろう。
今日は、そんな猫の気持ちが理解できるという人間を一人紹介したい。
それは他でもない、重じいさんの飼い主である。
第十二話
重じいさんの家にはよく行くので、自然と飼い主にも俺の顔も覚えられる。
すっかり顔馴染みなのだ。
重じいさんを飼っているのは人間のじいさんとばあさんで、猫の鳴き声が分かるというのはばあさんの方である。
このばあさんは大の猫好きなようで、重じいさんを飼う前にもたくさんの猫を飼っていたらしい。
その証拠に、庭の隅には今まで飼ってきた猫の墓があるのだ。
重じいさんに連れられて俺も行ったことがあるのだが、その墓を見て俺はたまげた。
横一列に並ぶ墓標に書かれている名前は、あれも重(しげ)、これも重(しげ)、それも重(しげ)。重、重、重の大名行列だったのである。俺は思わずひれ伏しそうになった。
「わしゃ十代目じゃ」
重じいさんがこんなことを言った。いや、歌舞伎役者じゃあるまいし……。
ある時重じいさんが、「道子さんはな、猫の気持ちが全部分かるんじゃ」と言った。
ああ、道子さんというは、飼い主のばあさんの名前らしい。
そのことを重じいさんから聞いたとき、初めは信じられなかった。いくら重じいさんの言葉でも、そんなことできるわけないと思ったからだ。
すると重じいさんは「まあ見ておれ」と言って、コップに入った濃いお茶を苦そうに飲んでいたばあさんに近寄っていった。
重じいさんが側に寄って行くと、ばあさんは頭を撫でて「どうしたの?」と声をかけた。
重じいさんはばあさんが食べかけていたクッキーを見つめながら、「ミャアミャア」とねだるように鳴き声を上げた。じいさんなのに人間の子供みたいに菓子をねだる姿は、ひどく滑稽に見えるが何となく微笑ましい。
「お菓子が欲しいのかい? ほれ、お前さんの好きなクッキーだよ」
そう言ってばあさんは手に持っていたクッキーを小さく割ると、皿の上に乗せて重じいさんの前に差し出した。
確かに重じいさんが「ミャアミャア」と鳴いたのは、クッキーが欲しいと意味であった。だが、食べていたクッキーを見つめられながら鳴かれたら、クッキーが欲しいんだなと簡単に気づくだろう。
重じいさんが「ニャ―オ」と目を細めて鳴くと、ばあさんは「美味しいかったか」と微笑んだ。
これもだいたい分かりそうなことである。物を食べて喜んだら、誰だって「美味しい」と言っているんだなと感じるはずである。驚くことではない。
重じいさんは続けて「ニャ―オ」と鳴いたが、俺はそれを聞いてびくりと驚いた。重じいさんが言った意味が、
だがばあさんの次の言葉に、おれは面食らった。
「そうか、コーラが欲しいのか」
……当たっていた。確かに重じいさんは、コーラが欲しいと言ったのである。ばあさんは「よっこらしょ」と立ち上がると、台所の方へ消えていった。
本当にこのじいさんはコーラを飲む気なのかと、俺は唖然とした。だが重じいさんは、ばあさんを待ちわびるように部屋を外を見つめたままだった。
しばらくして、ばあさんがお盆に皿を乗せて戻ってきた。その皿には、シュワシュワと泡を立てる黒い液体が並々と注がれていた。どこをどう見てもコーラである。
重じいさんは目の前に出されたコーラの皿に、間髪を入れず舌を伸ばした。大好物らしい……。
俺はその時初めて、コーラを飲む猫を目の当たりにした。しかもコーラを飲んでいるのは、俺よりのはるかに年上のじいさんである。
まだまだ若いぞ、このじいさん……。
しかし重じいさんも重じいさんだが、コーラが飲みたいという重じいさんの気持ちを理解できたばあさんもまたすごい。
クッキーを食べ終わった後で鳴いたので、飲み物が欲しいのかなと思う。これもすごいことだが、不可能ではないかも知れない。
だが本当にすごいのは、飲みたいのがコーラと分かったことである。仮に、目の前の猫が飲み物を欲しがっていると分かったとしよう。だがその猫が、コーラを欲しがっていると想像できる人間が果たしているだろうか。普通に考えたらあり得ない。
あのばあさんが猫の気持ちを理解できるというのは、もしかしたら本当なのかも知れない。そう思った瞬間、俺ははたと気が付いた。
重じいさんの気持ちが理解できたとしても、コーラが欲しいということに驚かないはずがない。しかしばあさんは、さも当たり前のようにコーラが欲しいのかと言ったし、ちゃんと準備もされていた。おまけに重じいさんはコーラが好きらしい。もし重じいさんがお菓子を食べた後にいつもコーラを飲んでいたとしたら、それでも十分に驚くべきことなのだが、クーキーを食べた後で鳴いたとき、コーラが欲しいんだなと感じることもできるかも知れない。
もしそうだとしたら、あのばあさんが猫の気持ちを理解しているとは言えないはずである。
重じいさんはどうだと勝ち誇ったかのような表情で振り向いたが、疑わしげな目をしている俺を見て、「ふん」と面白くなさそうに唸った。そんなに簡単に信じられるものではない。
そこで俺は、最も確実な方法を思いついた。もし本当に猫の気持ちが理解できると言うのなら、俺の気持ちも理解できるはずである。もし俺の気持ちも理解できたら、俺も潔く負けを認めよう。
ふと見渡すと、ばあさんがコップに入れて飲んでいたお茶が目に入った。なんだかお茶にしてはずいぶん濃いのが気になったが、コップに入っているからには冷たいお茶なんだろうと思い、それを飲みたいと言ってみることにした。熱いのは苦手だからな。
俺はばあさんに向かって「ニャ―オ」と鳴いた。
「どうしたんだい?」
と、ばあさんが答える。
俺はもう一度「ニャ―オ」と鳴いた。
「へえ、このジュースが欲しいのかい?」
なんと一発で見破られてしまったのだ。もしかしたら、知らぬうちにコップの方に視線が向いていたのかも知れない。それでもすぐに分かったのは流石である。
「このジュースは不味いけど健康に良いんだよ」
えっ、不味い? 俺は耳を疑った。苦いというのではなく、不味いと言うのである。お茶なのに。
「でも道子さんよ、猫が青汁なんて飲むのかね?」
ばあさんの隣に座っていた飼い主のじいさんが言った。
青汁だって? 俺はお茶だと思っていた飲み物は、青汁だったらしい。どうりで緑色が濃かったわである。
「でも飲みたいって言ってるんだから、あげようじゃありませんか」
青汁を飲みたいなんて言ってない。いや、言ったかもしれないが……。
俺の意に反して、目の前には青汁が並々と入った皿が差し出された。ばあさんは、「さあお上がり」とにっこり微笑む。
本心はそのまま背を向けて逃げ出したかったことだが、飲みたいと言ってしまった以上飲むしかない。勝負に負けた罰と思って、俺は飲み干すことにした。
ああいうものは一気に飲んだほうが苦しみは少ない。嫌がってちびちび飲んでいては、不味さを何度も味わうだけである。俺は猛烈な勢いで青汁を口に運んだ。
でもやっぱり、不味い……。
「おお、あっという間に平らげちまったぞ。もしかしたら気に入ったのかもしれないな」
と、俺の飲みっぷりを見ていたじいさんがとんでもないことを言い出した。じいさんの方は、まるで猫の気持ちが分からないらしい……。
「まあ、私の見てない間にきれいに飲んじゃって。よっぽど気に入ったのね」
冷や汗を流す俺の目の前で、青汁はたっぷりと注がれていくのであった。
その後数日間、俺は青汁の恐怖と戦うことになったのである……。
おしまい……
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