第四話: ドイツ語 吉田先生
あれは大学教養過程の2年のとき。
ドイツ語の試験で59点だった私は焦っていた。
一点足りないのだ。60点なら合格。しかもドイツ語の全単位を獲得してしまうので、後期は羽を伸ばせる。
何とか一点欲しい・・・・
そうだ。頼みにいこう。拝み倒せば一点くらいくれるかもしれない。怒られるかもしれないが、駄目でもともとだ。脳裏には温厚そうな吉田先生の顔が浮かんでいた。
思い立ったが吉日。早速、吉田先生の研究室の戸をたたいた。
「どうぞ」
分厚い書物から顔を上げた先生は私を迎えいれた。
「あのう、今回の試験なんですけど・・」
恐る恐る答案を差し出しながら
「先生、合格にたった一点足りないのですが、何とかなりませんでしょうか?」
あまりの馬鹿正直さに我ながら情けないと思いつつも、言った。
意外にも先生はあっさり
「いいよ」と言った。
え?その喜びも束の間
「ただし、今、君が採点ミスを発見できたらね」
なるほど、さすが偉い先生は違うぞ。頭ごなしに怒鳴るなんてことはしないし、かといって甘いわけでもない。論理的だ。実力を見せれば、一点くらいもらえるぞ・・・
しばし答案に見入った私は、顔を輝かせて聞いた。
「先生、この作文ですけど・・・」
「うーむ。これは定冠詞の使い方が違っているし、名詞は大文字で始めてもらわないとね。」
「じゃ、先生これはどうでしょう?」
「これはスペルが違ってるから減点はやむをえないな。辞書で調べてごらん。」
「はぁ」
ねばること30分。こりゃ、駄目かもしれない。
「どうだね、降参するかね?」
99%絶望の虚ろな目に、ふとあるものが止まった。ん?なんだありゃ。本棚の中のあれは・・。おお!リコーダーだ。
そうだ。吉田先生は音楽が好きなんだ!
クラシックの演奏会にいくと、必ず吉田先生の姿があるじゃないか。いつも一生懸命聞いているぞ。
音楽に合わせて、首を振ってリズムをとりながら、そして、それがだんだんずれていく姿が、そして、いつかこっくりこっくりする姿が鮮明に浮かんできた。
しめたっ!
「先生。ドイツ語はあきらめました。でも僕、リコーダーが吹けるんです。」
「ほう」
先生の目が輝いた。
「あの、ずうずうしいんですけど、先生のリコーダー吹かせてください。」
懸命に言葉を続けた。
「それでもし、先生が、うまいっ!と思ったら一点いただけませんか?」
「それは面白いね。やってごらん」
先生の好々爺(そんな年ではないが)とした顔を見て内心、これは頂きだな、うひょひょ。いやいやそんな顔をしてはいけない、と自分を戒めながら、
「では、吹かせていただきます。先生のお好きなバッハ作曲無伴奏チェロ組曲第一番のリコーダーバージョンです」
♪ぴゃらりらりらりら ぴゃらりらりらりら ぴゃらりろりろりろ ぴゃらりろりろりろ
ぴゃらりらりろりろ ぴゃらりらりろりろ ぴゃらりろりろらろれろらろれろらろ
ぴゃらりらりらりら ぴゃらりらりらりら ぴゃらりろりろりろ ぴゃらりろりろりろ
ぴゃらりらりろりろ ぴゃらりらりろりろ ぴゃらりろりろらろれろらろれろらろ・・・・
まさに吹きまくり。力の限り吹きまくった。
プレリュードの次はアルマンドだ。
♪ビ、バビブ〜 ベバボ ベボバボベボバボ べ ボビバ ベロベロ バビブベバビブベ ボッ!・・・
よーし調子が出てきた。クーラントだ。
♪ぱん ぱんぱん ぱん ぴゃら へろへろ ぱんぱんぱん・・・・
ウム、目を閉じて聞いているぞ。しめしめ、演奏会のときと同じ様子だ。サラバンド!
♪べろべ、べろべ〜〜ろ ひゃらりら べろべええええ〜〜らろ。 れ!ふぁ みーれどし ど み ほにゃらら れろれろえええ〜〜どし はほひほ ひー・・・
よーしこのまま突っ走れ〜〜。もう少しで勝利は私のものだ!
メヌエット、ジーグまで全部吹き切ったところで、先生は目を輝かせて、ガバッッと立ち上がった。
「す、素晴しい!君は大芸術家だ!」
(やったぞ)
「君のような素晴しい芸術家は世俗の試験の点数、しかも一点なんてみみっちいものにこだわる必要は、
全然、な〜〜〜〜〜い!!!」