...........力の渦が俺をのみこんでいく........。ゆっくりと墜ちていく
のを感じる。
ああ.....俺は.......やっと死ねる.......。やっと、この悪夢のような世
界から皆の待つところに行ける。小さいころのように真白な自分に戻れる。
(行ってしまうの?)
誰かの声がする。
(あんなに想ってくれてるひとたちを、そのままにしていっちゃうの?)
金色の髪と碧い瞳。
(泣いてるよ、あのひと。ヴァルのこと、呼んでるよ)
目を開くと、そこは夜空に輝く、満天の星空。
(せっかく、想ってくれてる人たちにたくさん会えたのに、ヴァルはおいて行
っちゃうの?)
たんぽぽ色のくせっ毛。蒼穹の瞳。
「クリス..........迎えに来てくれたんだな」
別れた時そのままの、小さな弟。
(ねえ、ヴァル、あんなに想ってくれる人がいるのに、おいてっちゃうの?)
さざ波が波紋を生む。あるはずのない泉に、彼の名前を呼び、泣き叫ぶジラ
スの姿が映る。ただ涙を茫然とながす、あの黄金竜の娘がいる。
なぜ、嘆く。なぜ、悲しむ? 俺は穢れきった世界を終わらせたかった。俺
の魂に溶け込んだダークスターとヴォルフィードの意志とともに、無限地獄を、
疲れ切った悪夢を消し去りたかった。ただ、安らぎのなかで眠りたかった。
(ヴァルは....苦しかったんだね。.....ボクたちのせい?)
小さな弟は相変らず泣き虫だ.....。身を屈めて涙を拭いてやる。
「おまえのせいじゃない....。おまえが俺を置いていったからじゃない」
(だって....ヴァルが幸せになることだけを願っていたのに。父さまだって、
母さまだって、ヴァルのこと....)
幸せ。それは奪われてしまったもの。掌から零れてしまって見つからなかっ
たもの。
(ごめんね....ボクがヴァルを不幸にしちゃったんだ....)唇を噛む。(ヴァ
ルの心を縛っちゃったんだ。同族がいなくても、ヴァルのこと、血の絆を越え
て想ってくれてるひとたちはいっぱいいたのに、なのに......)
心になにかが閃いた。そうだ、あの晩、母さんが言っていた.........。
(ボクたちだって、種族は違うけど、楽しかったよ。ヴァルには絶対幸せにな
って欲しかった....)
頬を涙が伝う。(ヴァルが幸せになってくれなきゃ、いやだよ)
差し出した小さな掌から、光があふれる。暁の眩い金色の光。
(ヴァルハラ.......)
振り向くと、あの女がいた。幼いあの夜出会ったそのままに、透き通った夜
空のような瞳のひと。
「スクレーツァ......」
共にあるダークスターとヴォルフィードの魂が想いを共有する。懐かしい。
世界に生まれ落ちる前、混沌のまどろみのなかで慈しみを与えてくれた、夜の
司。
「夜よりも、なお昏きもの.......」
光と闇の、混沌を支える力。彼らなのか、呼ばれたのは。俺を滅ぼすため?
俺を死に迎えてくれるため?
(我が下にくる刻は、まだ満ちてはいない)遠い彼岸で彼女は囁いた。(まだ
やり残したことがあるでしょう?)
「やり残したこと......?」
(まだ、命尽きるまで、あなたは生きてはいない。心が満たされていない)
此岸で彼女は呟いた。
(まだ、機会はある........。暁はあなたに機会を与えたがっている。お行き
なさい、もう一度、生きてご覧なさい)
柔らかに輝く光の玉を2つ、彼女は掌に受ける。
(この世界に降りたディグラディグドゥとヴォルフィードの魂の欠片は混沌に
還る。でも、あなたはまだ自分のために生きてはいない)
光は消える。
夜の闇に溶けて、声だけが響く。
(お行きなさい。私には、竜の数千年の命も、瞬きにも等しいほんの短い間に
すぎない。生ある時に私を見つけて......)
「スクレーツァ!」
叫んだ。「俺は......あなたのそばに行けるわけがない....!」
神も魔も否定し、全てを悪夢から解放したかった。今ならわかる。スクレー
ツァは....そしてクリスも、混沌....万物の支配者と共にある。彼らがなぜそ
こにいるのかはわからないが。彼らの差し伸べる手を俺は振り払ってしまった。
あれほど己が求め焦がれていた手を、振り払ったのだ。混沌に支配されること
を拒んだために。
(我等の母が生み落した、心優しき者よ。全ての想いは混沌のもの。生きなさ
い。機会はあるのよ、エンシェントドラゴンよ......)
余韻と共に、彼女は消え去る。黄金色のたゆとう泉に、膝を付く。
(ヴァルが彼女のところに行くのは、もう決まってるよ)
クリスが囁く。(あとは、その道を探すだけ)
そのまま、首に腕をまわし頬をくっつけてきた。あたたかい........生きて
いるかのように。
(頑固なヴァル、意地っ張りなヴァル........でも、大好きなんだよ。もう一
度生きてよ)
「クリス.....死んだのに、おまえは暖かいな......」そっと抱きしめる。
(生きてるよ)
腕を離した。まさか。別れてから何百年もたっているのに。なぜ子供の姿を?
(父さまも母さまも死んだけど、ボクは生きてる。......それとも、やっぱり
死んでるのかしら?)
人差し指を顎にあて、上目遣いに考え込む。(もう、ずうっと生きてる....
と思うんだけど。ちゃんと寝て、起きて、ご飯食べてるし。時々こんなところ
に来ちゃうけど)
「生きていた.....」
凍りついた心が、心の凍てついた刺が溶ける。けれど泣くことができない。
心の痛みが苦しくて、もう、どうやって泣くかすら忘れてしまった。
(ヴァル、やり直そう。やり直したいんでしょう?)
「やり直す.......」
さっき、彼らにそう言ったのは、己自身。全てを消去し再生し、全てをやり
直す。でも、なぜ心が揺れる? 己の運命を呪い、全てを憎み、現実という悪
夢から逃れたかったのは俺自身なのに?
(捨てたくないんでしょう? 今まで大事に抱いてきた想いの全てを)
碧い瞳が、瞬きもせずに見つめている。想い。幼い時のあたたかく優しい思
い出。家族を奪われたときの復讐の誓い。放浪の末巡り合った一族たちが殺さ
れた時の虚しさ。魔竜王という主に巡りあってからの想い。主を失ってからの
絶望、そして.......滅びへの憧憬。
「.......そうだな.......」苦笑した。「なにもかも失ったと思ったのに....
..俺はまだそんなものを持っていたのか」
座り込み、ふうっと溜息をついた。「捨てたくない....」
疲れを感じた。俺はなにをあがいていたんだろう。なぜ大切なものまで気が
つかなかったんだろう。想いがなくては俺は生きて来れなかった。俺が求めて
いたのは....だれかと想いを分かち合う安らぎだけだったのに。
「.......もう、手遅れ、か.......」天を仰ぐ。ダークスターにのみこまれ、
肉体をなくし、亡霊のような自分。いや、混沌の力に滅ぼされ、すでに亡霊に
なっているんだろう。
(だから、まだ手遅れじゃないってば)
クリスが肩を揺さぶる。(まだ間に合うよ。まだ、いまならやり直せる。う
うん、幼生に転生して、もう一度始められるんだよ)
「転生........もう一度......はじめる?」
あの苦しみの続きを.....?
(ヴァルはこれから、今までの分も幸せになるの。ヴァルに決まってるのは、
いつかスクレーツァのところに行くってことだけ。小さいころの夢をかなえる
んだよ)
そんなことが許されるのか。こんな俺に。
(ヴァルは優しくて、ボクたちとか魔竜王とか、どっかの異界の魔王とか神と
か、他の誰かの為ばっかりに生きてきたんだもん、ヴァルのために生きてよ)
俺のために。俺自身のために、生きる......。
「俺は....生きていていいのか? 世界を滅ぼそうとした俺に、そんなこと....?」
(ボクが許すから、いいの)
えっへん、と胸をはる。その姿に胸の奥から、笑いがこみあげてくる。
(笑ったね)
にっこり笑うと彼の腕をひっぱって立たせる。(ほら、行って皆を驚かして
あげなよ)
2、3歩歩みだして、ふと振り返る。
「クリス......おまえは?」
きょとんとした弟に、手を差し出す。「一緒に行こう。一人なんだろ?」
静かに首を振った。(ボクはここにいなきゃいけないんだ。ボクはユイがい
るから、寂しくないよ。ほら)
小さな肩に白い手が置かれる。白く長い髪の....ヒト? 精霊? 一角獣?
『今のヴァルなら、わかりますか』かつての師は静かに微笑む。『私はこの子
の側に在るためだけの存在。この子のかつて属していたものの全てが、私の内
なる存在』
父も母も何も彼も、クリスが失ってしまった世界の残り香がそこに存在する。
(平気だよ)小さい手が白い手を握る。(ユイもいるし、ボクは一人じゃない
もの。ヴァルや皆がいるもの......ああ、そうだ、忘れてた)
そばに駆け寄ると、掌になにかを押し付ける。燃え上がる炎の色の、硬く尖
った....。
「俺の....角?」かつて魔竜王ガーヴから力を与えられた時、魔族の証に額に
生えた角の欠片が色を変えて輝いている。
(これにね、想いを封じたからね)
小さい手が、掌ごと包み込む。(転生してしばらくは、前世の記憶をこれに
封じるよ。封印を解くのは、ヴァルの心。全てを受け入れられる時になったら
封印は解けるから)
見上げる額をこづく。「至れり尽くせりだな」
(ヴァルの大事な宝物でしょ。......ね、そのときになったら、ボク、逢いに
行っても....いい?)
「当たり前だろ。.....待ってるよ」
眼を閉じる。そうだ、目覚めるまではホンの一瞬。俺は俺でありたかった。
ガーヴ様がガーヴ様自身でありたいと思ったように。生きるのは、俺が俺自身
であるため。
............嘗てヴァルハラと名付けられ、ヴァルと呼ばれ、ヴァルガーヴ
と名乗ったものは、一瞬輝きを放ち、消えた。