2月
2月4日(土)  みぶりは

立春。冷たい風が吹く夜。

「みぶりはこころのあまりにして」

これは、NHKで坂田藤十郎のことを特集した番組の中で、初代藤十郎が残した言葉だそうだ。心があって、そこから身振りが自然に生まれ出る、といったような意味になるようだ。いわゆる型を中心とした江戸歌舞伎とは大きく異なるところだという感じで、上方歌舞伎復興に賭ける藤十郎の意気込みの現れの一つとして、番組では上手くまとめられていた。

ふんむ、と思う。演奏する姿というのも、どうもこの辺りに関係している気がするからだ。立ち姿、演奏する姿がモノを言っていない、何かを感じられない演奏家はどうもアヤシイ。美しいとか醜いといったような次元の話ではない。

してみると、はて、我はどうなり?演奏フォームなどを大幅に変えてから丸1年ちょっと経ったが、どうも上半身が猫背気味な気がしている。もっと凛としたい。


2月8日(水)  ピアニスト同士

ピアニスト同士が会う、という機会は実はなかなかない。交流を深めるといった機会にもそうそう恵まれない。北海道と九州といったように、場所が離れているならば致し方ないこともあるだろうけれど、東京に住んでいても、それぞれ違う場所で夜な夜な演奏していることもあって、互いの演奏を聞きに行くということもあまりない。かつて、新宿・ピットインが伊勢丹の裏手にあった頃は、朝・昼・夜の部を問わず、けっこうミュージシャン同士が顔を合わせることはあったし、近くで演奏しているミュージシャンが休憩中にちょっと立ち寄るといったこともあったが、それも今はあまりない。

1997年秋、かなたライプチヒの地で、私は山下洋輔(p)さんと高瀬アキ(p)さんと演奏する機会に恵まれたが、こうした大先輩や師匠と3台のピアノで演奏するなどということは夢のような出来事で、おそらく私の生涯にもう二度とないことだろう。

一昨年、谷川賢作(p)君が企画した、ピアニスト5人によるソロ・コンサートは、私にとっては印象深いものだった。こうした企画自体を立てることができる谷川君の活動の仕方に、私は共感を覚える者の一人だ。

先週、黒田京子トリオの演奏の時、森下滋君が聞きに来てくれた。今日、林正樹君の演奏を聞いた。某店のマスターはずいぶん前から田中信正君とのデュオをやってくれないかと、私に提案している。

今、若くてすばらしいピアノ奏者が続々と出てきていて活躍している。彼らに限らず、現在の20〜30代の演奏家たちは、ある意味、非常に自由に演奏している。ジャズだ、ロックだ、民族音楽だ、即興音楽だ云々といったようなことに拘泥していない。自由には不自由さや躓きや陰のようなものがあると思っている私には、彼らからはそうしたことが感じられないこともしばしばあるのも事実なのだが。

そうした若い人たちが育った音楽環境は、例えば秋吉敏子(p)さんや渡辺貞夫(as)さんといった大先輩たちが、当時は高価だったLPを聞いて必死にコピーしていた時代とはまるで異なっている。あるいは、団塊の世代の人たちが学生だった頃は、ジャズが時代の最先端の音楽だったわけだが、海外から入ってきたそうした”ダンモ”や”フリー・ジャズ”、またはロック、フォークを、新しい音楽として享受していた時代とも全然違う。

とにかく、このピアニスト同士があまり出会うことがない状態を、少しなんとかしたいと思っている。ちょっと面白いことを考えよう。

(ということで、今年はあれこれ少し企画してみようと思っています。応援してくださーい。)


2月11日(土)  5センチ

冬季オリンピックがトリノで始まった。開会式の再放送を見る。その色彩感はなんだか実にイタリアらしいと感じる。フェラーリが登場した時は、思わず笑った。

スピード・スケートの岡崎選手はフォームの姿勢を5cm低くしたという。素人の目からは全然わからないが、氷の上を滑っている本人にとっては大事に違いない。

ということが容易に想像できるようになった。演奏するということは非常にフィジカルな問題も含んでいることを思い知るようになったからだろう。とても人事とは思えない。


2月13日(月)  いのちあるもの

雲一つない晴天。

勾配のきつい石段の途中に、木の立て格子の引き戸。かつて明治の文豪が住んでいたような佇まい。手入れの行き届いたお庭と家。暖かい陽射が差し込む窓のかなたには海の蒼い水平線。

打ち水が施されている内玄関には、竹編みの籠の中に、色鮮やかな菜の花。お香はほのかに。

下駄箱の上には、たんぽぽの綿毛が美しく活けられている。水は張られていない。
なんだか涙がこぼれそうになった。その人、そのまま、だったからだ。

簡素に配慮された床の間には赤い椿の花が凛と一輪。掛け軸は朱色の地に描かれた武者小路実篤の言葉。

樹齢400年という木を守るために、その人は土地を買い取ったそうだ。その樹はホルトノキ。オリーブのような実を付けている大きな木に、静かに呼びかけてみる。生きてて、ほんとによかったね。

踏み石の真ん中に穴が空いている所があって、そこに小さな緑の葉が顔を出している。
そうやって草や花が命を開いていることに、心から深く「すごいことだわ」と言うその人の言葉に、また心が震える。

小さなミジンコが生きている姿を顕微鏡で見て、まるで子供のように無邪気にはしゃいでいる。その人の姿と美しい笑顔に、ああ、こんな風に生きたいと、また思ってしまう。

なんでもないこと。小さな命。にも、素直に感謝せずにはいられないような気持ちになる。与えられて在ることの尊さ。心温かい、午後のひとときだった。

画家・堀文子さんの作品を初めて見た時、ものすごく衝撃を受けた。いったいこれは何なのだろう?が、またもや私を突き動かした。それからほどなくして、このようにその人に出会うことができた喜びは、言いようがないくらい大きい。

また、この日、一人のチェンバロ奏者と出会うこともできた。ほとんど話はできなかったが、ここのところバッハ以前の曲が収められたCDを20枚くらい購入した私には、これもまたうれしい出会い。


2月15日(水) モダン昭和

CD『バートン・クレーン作品集』を購入。昭和初期、バートン・クレーンという一人の外国人がSP盤に残した作品が集められたCDだ。怪しげな日本語によるコミカル、ナンセンスな歌がたくさん入っていて面白かった。イメージとしてはエノケン、か。

バートン・クレーン(1901-1963)は米紙の東京特派員として1925年に来日し、11年間日本に滞在したアメリカ人。その滞在中に30曲余り録音されているらしく、相方で歌っている女性歌手には淡谷のり子などもいる。

彼が歌った作品の中には、例えばふちがみとふなとさんたちがカヴァーしているものもある。”カヴァー”という作業は、実はけっこうたいへんなことだと思う。他人が歌っているうたを歌うというのは、遊び半分でやることは容易いだろうが、尊敬を前提として、それに拮抗するだけの自分の歌にする必要が迫られると思うからだ。この点、ふちふなさんたちの姿勢は立派だなあと思う。

興味を持たれた方はこちらへ。
http://www.jah.ne.jp/~ishikawa/Burton.html

 


2月16日(木)  おさんの選択

国立劇場へ文楽を観に行く。2月の公演は3部に分かれていて、私が行ったのは第三部の『天網島時雨炬燵(てんのあみじま しぐれのこたつ)』。これは近松門左衛門作『心中天網島』(1720年)を元に改作された脚本。その最期は男と女が心中する話。女を刺した男が首を吊ろうとする所で、私たちの前には幕が引かれる。

所は大阪・曽根崎新地。治兵衛という男、妻と二人の子供がありながら、遊女・小春と仲良くなって三年。身請けする金が工面できない治兵衛は、小春と心中の約束をする。それを知った治兵衛の妻・おさんは「夫の命を救って欲しい」と小春に手紙を送り、それ故、小春は心中しなくても済むように侍(実は治兵衛の兄)に打ち明けているのを、治兵衛が耳にしてしまう。

小春の不実を勘違いした治兵衛は炬燵にくるまって涙にくれている。(ここで会場から少し笑い声が洩れるのが関西風か。)その夫の姿を見た妻は、家に戻ってきてくれたのね、うれしいわん、と思う間もなく、やはりあの遊女に未練があるのだと悟り、おさんの願いの犠牲になった小春を、今度は自分が救わなければと身請けの金の準備にとりかかる。箪笥から着物などを出してくる仕草が、それは細々と人形遣いによって表現される。

小春の命を救って、夫の面目を立てる、その一心で金の工面に奔走したおさんだが、私なんぞは子供を育てる単なる飯炊き女に過ぎないのだわと嘆き、結局、実父に連れ戻されて尼さんになってしまう。そして最後は小春を身請けする金を用立てる。

が、治兵衛は妻子への思いを胸に、小春はおさんを治兵衛と別れさせる原因になったのは自分で、ますます生きてはいけない、そして治兵衛の命を助けるというおさんとの約束が果たせなかった心残りを胸に、心中する。

なんだかどろどろの昼下がりのメロドラマのようだが、この妻・おさんの選択、現代の人はどう思うだろう。

ところで、この心中。

深夜のオリンピック放送の合間に、たまたまフラメンコで演じられる『曽根崎心中』のドキュメンタリー番組を見た。後方に金髪の大儀見元(per)さんがカホーンを叩いている姿がちらりと見えたからだった。が、それは日本から招聘されたフラメンコ・ダンサーが、スペインのフラメンコ・フェスティバルに挑む、自分たちがやっていることがフラメンコ発祥の地でいったい受け入れられるのかどうか、という内容のものだった。

カトリック教徒が多い国で、男女がいっしょに自殺するなどという話が、そもそも理解されるかどうか、ということもあっただろう。番組の中で放送された公演の最後では、スタンディング・オベーションを受けていたから、いつの時代にもあるいわゆる男女の愛の姿を、彼らの踊りはきっちり表現していたのだろう。

フラメンコの本場スペイン、ジャズの本場アメリカ、タンゴの本場アルゼンチン。クラシック音楽ならやっぱりヨーロッパ。なんでもいいが、一般的に言われるところの”本場”という言葉が意味していることに、どうも私は時々なじめない。そこには、その地で発祥したものこそが”本物”だということがほとんどイコールになっており、そうでないものを排斥したり一蹴したりするニュアンスが含まれているためだ。本場だから本物だ、とは必ずしも言えないだろう。そういう視点のみで見たり聞いたりすることから、その人間や事柄の本質を見抜くことはできないこともあるだろうと思うためだ。

無論、それは一面確かにそうには違いない。その地に行って、初めてわかること、感じることは山のようにある。そこにはそれまでの歴史や文化がある。さすがに本物だと感激したり、それまでの自分の認識が誤っていたことに気づいたり、場合によっては自分の薄っぺらさに落ち込むことだってあるだろう。

雑音に惑わされることなく、ちゃんと本物を感じる感性と、鋭く見抜く力をもっと身につけたい。そのためにはまだまだ勉強が足りない。


2月18日(土)  手は幾筋もの流れる線に

  ふと、かたわらを見て
  気づくことがある

  そこに
  花
  そして
  光

  見えないいのち
  そのかたちにたどりつこうとして
  けれど
  それは永遠にたどりつかないことも知りながら
  手は幾筋もの流れる線になる
  求めて

  思いは
  内へ流れこみ
  あるいは
  うずまき
  ある時は
  外へあふれ出づるほどに
  

調布市・仙川にあるギャラリーへ、小山利枝子さんの作品を観に行く。画家・小山さんは斎藤徹(b)さんのリーダー作CD『ストーン・アウト』(1995年録音)のジャケットを描いた方だ。振り返れば、お付き合いはその頃から続いている。

2001年に練馬区立美術館で、昨年(2005年)に銀座の画廊でされた個展を拝見した時、そのジャケットの絵の時代のものとはずいぶん異なると感じた。今回の展示はわずか三点ほどしかないが、昨年末とこの1月に描いたと言われていた作品たちは、私にはさらに軽く、肯定的な希求のベクトルを持つ、外の世界へ開かれたものになっているように感じられた。

シルクスクリーンをやっている友人たちと小山さんと、女性ばかり4人でランチをとり、ちょっとお散歩。屋根の上にサボテンを栽培している一風変わった小屋に立ち寄ったり、結局は武者小路実篤記念館にたどりつけず、坂道を汗をかいて下り登り。わいわいと楽しく過ごす。女4人というのもいいものだ。

それにしても、仙川駅南口周辺も大きく変わりつつある。良いのか悪いのか、よくわからないが、なんでも建築家・安藤忠雄の事務所が中心になって、仙川を”音楽と芝居のある町”にする計画が進んでいるらしい。南北を貫く幅の広い道路も工事中だった。

私はここに12年間通っていたのだが、通学路だった商店街や道に、今もまだ残っているお店はほんのわずかだ。その一つ、パン屋さんから流れてくるパンを焼くとっても良い臭いに、昔を思い出した。私は中学・高校と運動部にいたのだが、ラーメンを食べて、あんみつとお汁粉を食べて、家に帰って夕飯にコロッケを食べる、というようなこともしていたっけ。ちなみに、学校の規則ではそういう飲食店に入ってはいけないことになっていたのだけれど。暑い夏にはわざわざ隣の駅まで行って、カキ氷を食べたりして。えへへ。

興味のある方は
http://www2u.biglobe.ne.jp/~plaza-g/


2月19日(日)  プレッシャー

今、トリノで行われている冬季オリンピックの選手たち。それに皇室典範について議論されているが、その皇室にいる雅子妃。そのプレッシャーは想像を絶するものに違いない。

昼間、300年続いている狂言師の茂山一家のドキュメンタリーをテレビで見た。茂山千作さんは人間国宝。その息子・千五郎さんは現在60歳だそうだが、父も祖父も人間国宝というプレッシャーの中で、何度もアルコールに溺れたそうだ。

この頃、時々、私もプレッシャーのようなものを感じるようになった。もちろん、とても上記に掲げた人たちの比ではないが。人から期待される、良い演奏を望まれる、誰とどういう音楽をやっているかがますます問題になってきている等々。と共に、ここまで生きてきて、責任のようなものを勝手に感じ始めている。多分、これからはもう自然児・京子だけでは済まされない。けんども、気張ったところでどうなるものでもないから、適当に自覚的に、肩の力を抜いて、ぼちぼちやっていこう。


2月20日(月)  微笑む演奏

初台・オペラシティへ、ファビオ・ビオンディ(vl)(1961年生まれ)率いるエウローパ・ガランテの演奏を聞きに行く。

前半は、
ヴィヴァルディのオペラ「バヤゼット」よりシンフォニア
モーツァルト 交響曲第11番 ニ長調K84
テレマンの組曲ト長調「ドン・キホーテのブルレスカ」

後半は、
ヴィヴァルディの「四季」協奏曲集 作品8「和声と総意への試み」より
というプログラム。

楽しかったあ。決心してタイマイはたいた甲斐はあったというもの。

ビオンディについては、過去、この『洗面器』でもそのCDの演奏に触れたことがあるが、それはとても新鮮で、豊かな響きを奏でていた。「四季」は歯医者か眼医者か、小奇麗な喫茶店のBGMだと思っていた私は、頭をぶんなぐられた。そして、今晩の生演奏は想像以上に生き生きとしていて、心が湧き立った。

私が「四季」の生演奏を聞くことなど、これからの生涯、多分もうそうあることではないと思う。クラシック音楽のことはよくわからないが、技術だ、曲の解釈だ云々というより、私の耳に届いたのは、わしらはこの曲をこう弾きたいんじゃっ、という気持ちにあふれた音楽だった。ピッチなどどうでもいい、くらいの気分になる。

全体を指揮しながら、ほとんどノン・ビブラートで演奏するビオンディの身振りや呼吸が、私たちに音楽そのものを届けている。その気持ちと身体の動きが、時には弓に鋭い風を呼び、時には風をためてたゆたい、舞台上に空間を創っている。そうした演奏者たちが感じるべき空気を創り出しているビオンディは、なによりも全員の”親和性”のようなものを大切にしている感じが伝わってきた。

他に、テレマンの曲もなんだか面白く、印象に残ったが、ともあれ、演奏するのはけっこう難しそうだなあと感じた。けれど、みんな時々笑顔で演奏していた。アンコールもピッチカートのみで演奏するシャレた構成で、終演後、こちらもなんとなく微笑んでいた。終わった後、なんとなく微笑んでいる、などというコンサートは、おそらくそんなにないだろう。

うーん、今年ヴァイオリン・サミットをすると言っている某ヴァイオリニストには、これくらいのことをして欲しいぞ〜。期待をこめて。


2月21日(火)  テューバとセルバン

今夜もまたオペラシティへ『B→C(バッハからコンテンポラリーへ)』のコンサート・シリーズを聞きに行く。テューバとセルパンを演奏する橋本晋哉さんが登場。昨年フランスから日本に戻って来られた1971生まれの方だ。私はかつてブラス・エクストリーム・トウキョウという金管アンサンブルのグループの演奏で初めて聞いて、びっくらこいたことがあり、今日が来るのを心待ちにしていた。

初めて見て、音を聞いたセルパン。英語ではサーペントといい、文字通り”蛇”のような形をした楽器だった。もともと教会音楽で主として低音部の声のパートの響きを補強するために活躍した楽器だそうだ。のちには軍楽隊でも使われたとのことで、テレマンからヴァーグナーくらいまで使われていたらしい。

橋本さんの楽器は色が黒かったから、ジャングルにでも生息していそうな怪しげな雰囲気を醸し出していた。その音は柔らかく、多少ピッチが不安定になる音が決まっているようで、それがまた時折なんとなーく情けない感じがするところが、私にはたまらなく気に入った。華やかなイメージで、どうだっ、という近代の金管楽器の感じはない。非常に人の声に似ていると思った。

プログラムの前半は、
ディエゴ・オルティス(1510頃〜1570頃) 「おお幸福な目よ」にもとづくセリカーダ第2番&第3番
J.S.バッハ(1685〜1750) カンタータ第40番 BWV40から「地獄の蛇よ、怖くはないのか」
鈴木純明 「ヨハン・セルパン・バッハ」 カンタータ第40番 BWV40による 「セルパンとクラヴィサンの為の」
マウリシオ・カーゲル テューバ・ソロのための「ミルム」(1965年)
野平一郎 テューバとピアノのための「アラベスクV(1983年)

後半は、
ミシェル・ゴダー セルパン・ソロのためのセルペンス・セクンド(2001年)
鈴木純明 テューバとライヴ・エレクトロニクスのための「落ち着かないブルドン」(2003年)
湯浅譲二 天気予報所見(1983年) バリトンとテューバのためのヴァージョン
ヴィンゴ・グロボカール テューバとピアノのための「ジュリイチューバイオカ」(1996年)

私には後半の湯浅譲二さん作曲のものがもっとも面白かった。二人ともゴーグルを付け(これは作曲家の指定らしいことを耳にした)、言葉と音が絶妙なバランスに作曲されていて、ユーモアがいっぱい感じられた。おかげで、最前列でおおいに声を出して笑ってしまった。前半にも言葉が使われている曲があり、それも面白かったが、この辺りは私の好みか。

アンコールもフランス語とテューバ演奏が交互に出てくるもので、非常に演劇的。すわ、即興演奏なのかしらんと思ったけれど、どうもちゃんと作曲されたものらしい。いやあ、他の曲でもしみじみ感じたけれど、作曲家も実にたいへんだと思う。

現代音楽のことは詳しくはわからないが、今回のプログラムはB→Cにしてはかなり積極的に現代音楽を組み入れたものらしい。また、橋本さんの演奏能力はこんなものではない、もっとすごい、と言っている人もいる。相当超絶技巧を要する曲もあったように思ったのだけれど、そっかあ。

それにしても、私はどうもあの会場の雰囲気になじめない。休憩時間のロビーの光景を遠目に眺めていると、自分がここにいるのはおかしいんじゃないかとさえ思えてくる。みな、音楽を聞くことを楽しんでいるというより、各人が何か他者を値踏みしているような感触を受けてしまう。例えば、今日はどいつが来ているのか?今日の演奏はどこが良くてどこが失敗だったか?といったような。って、これは偏見か。

橋本さんはアンコールの前に少しだけ曲の紹介をした程度しか話さない。会場内にいる作曲家を呼ぶ時でも名前すら言わない。その演奏がとってもユーモラスでおかしいのに、聴衆はほとんど誰も笑わない。私にはどうにも不自然に感じられてならない。

実際、あらかじめ演奏曲目や作曲者が書かれたパンフレットが渡されるわけだし、とにかく演奏への集中力を欠くため話はしない、ということになっているらしい。かくのごとく、クラシック音楽のコンサートを聞く慣習のようなものが存在していて、私はそれに違和感を抱かざるを得ないところがあるようだ。クラシック音楽だろうが、現代音楽だろうが、もっと楽しめばいいのに〜、と思ってしまう。

参考:このコンサートのサイト
http://www.operacity.jp/concert/2005/060221_performance.php


2月24日(金)  笛ファンタジア

今週三回目のオペラシティ。偶然とはいえ、いやはや、いやいや。
今晩は『笛・幻想の旅』と題された、一噌幸弘(能管、つの笛、リコーダー等々)さんのリサイタル。

前半は、
一噌幸弘グループによる4曲。メンバーは太田惠資(vl)さん、吉野弘志(b)さん、鬼怒無月(g)さん。
そして、一噌さん、鬼怒さん、山田武彦(チェンバロ)さんと東京フィルハーモニー交響楽団のメンバーによる、J.S.バッハ『管弦楽組曲第二番』。

後半は、
一噌さんと田中美登里さんによるトーク・タイムから始まる。例によって、一噌さんの駄洒落に、会場からは笑いと拍手。ごく短いものだったが、こういう時間があってよかったと思う。
最後は、一噌幸弘グループと東フィルのフルオケによる、組曲『笛ファンタジア』。
アンコールはバッハの管弦楽の何か(失念)。グループのメンバーも演奏していた。

最初のグループのみによる演奏は、なにやら緊張感が漂い、みんなやや面持ちが硬かったように感じられたが、気合が入っていることがよく感じられた。思わず、がむばれ〜と心の中で叫ぶ。みんな、格好いいじゃん。

一噌君はある種の天才だと思う。今晩も全曲吹きまくって、吹き倒し、疾走しまくっていた。彼は生涯ああして吹き続けるのだろう。その姿は今週月曜日に聞いたビオンディの音楽とは非常に異なり、音楽が180度違うものだと思った。そして、バッハの曲を”能管”で演奏するなどという前代未聞、空前絶後なことをやってのけられるのは、後にも先にも彼しかいないだろう。実際、私は彼のお父様に少しの間能管を習っていたことがあるのだが、能管であのように吹くのは相当な超絶技巧を要する。

メンバーの二人は断ったというバッハの管弦楽組曲で、アコースティック・ギターを弾いて挑戦していたのは鬼怒さん。弦楽器が束になって鳴り響いている中では、私の席からは鬼怒さんの音はほとんど(全然)聞こえない。でも、私はとっても感動した。彼はほんとうに音楽に対して誠実だと思う。惚れ惚れした。ほんとに、めっちゃ、ナイス・ガイなロッカーだと思う。

最後の大作は力作。平野公崇(sax)さんの『七つの絵』などでもアレンジをしている、山田武彦さんの編曲は見事だったと思う。

途中、草原を響き渡るようなおおらかな弦楽器群のメロディーと響きに包まれて、太田さんは満面の笑みを浮かべていたのが印象的。ほんとにヴァイオリンという楽器が好きなんだなあと感じた。これまた例によって、オケの誰一人として弓の毛など切っていないのに、一人だけ切って床に捨てていた。ヴォイスやホーメイはおそらく本番まで温存していたものと思う。オケの人たちが目を丸くして微笑んでいた。あれだけの弦楽器の中にいると、太田さんの奏でるヴァイオリンの音色や奏法が、いかに異なっているかが際立って聞こえてくる。あっぱれ。

舞台中央にグループのセットは組まれていて、各種の笛を吹く一噌さんの後ろにベーシストの吉野さんが位置している。オケの2人のパーカショニストがいるのは舞台下手の後方で、舞台上ではタイム・ラグが起きるため、パーカッションにだけはマイクを立ててもらい、モニターで返してもらうようにしたという話だった。この難しい状況で、重要なリズムを支えていたのが吉野さん。時折、一噌さんをはじめ演奏者が走り気味なところを、吉野さんはふんばり、文字通りベースの役割をきっちり果たしていたと思う。吉野さんがいなければ音楽が成り立たなかったと言っても過言ではないだろう。いつになく堂々として、大きく見えた。

そして、弦楽器、管楽器、パーカッションという大編成のフル・オケと、一噌グループの演奏(太田さん、鬼怒さんは時々エレクトリック楽器も使っていたし)の、すべての音のバランスを創っていた音響さんの仕事。演奏途中で、アコースティック・ギターの音が聞こえるように音量が上がったり、といったようなこともあったと思うが、総じて私は素晴らしかったと思う。こういう人たちの苦労があって、演奏家はそこにいることができることを、私たちは肝に銘じなければならないだろう。

この東フィルに中学・高校時代の友人がいて、彼女が奏でるハープが目立つアレンジもあり、なんだか私は二重にうれしくなる。詳しくは聞いていないが、オケの人たちにとって、一噌グループと演奏するというような仕事は、とっても面白いものらしい。今度話しを聞いてみよう。

かくのごとく、今週は贅沢な時間を過ごした。秋のコンサートの打ち合わせや友人との再会なども含めて、演奏の仕事はほとんどなかったが、ほとんど毎日外出し、なんだかばたばたしている。そして、自分が背負おうとしているものが日々重くなっている気がする。けれど、まんず、今年は網膜剥離にだけはならないように注意しながら、少しふんばろうと思う。




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