『洗面器』
2006年

1
1月1日(日)  謹賀新年

初春。
本年もよろしくお願いいたします。

今年はなんとかピンで立てるようになりたいと思っています。つまり、黒田京子の名前で演奏に呼ばれるようになりたいと思います。

俗に言う売れたいとか有名になりたいという欲が、どうも私には著しく欠けているようで、いわゆる営業的なことをするのには、そのボディやフェイスも含めて、きわめて不器用、不向きにできているようなのですが、ま、気持ちだけは誠実に、そこにいるあなた、に向かって、しっかりと音を伝え続けていきたいと思っています。こんな私ですが、呼ばれればどこへでもまいります。呼んでくださーい。

また、黒田京子トリオ(太田惠資(vl)、翠川敬基(cello)とのユニット)の活動も継続してまいります。昨年はこのトリオによる初めてのCDも制作し、この1月でちょうど3年目の活動に入りました。即興演奏を中心にしたユニットですが、このトリオを軸にしていくつか企画を考えています。どうぞこれからも応援してくださいませ。
なお、近々、このトリオのwebのページを充実させるつもりです。情報を更新していきますので、チェックしてくださいませ。

去年は演劇の音楽も2本やりましたが、それとは別に去年1度だけやったドラマ・リーディングの試み、さらに別の演劇との接触を試みようと思っています。
また、企画に手を挙げてくださる自治体なりどなたかがいれば、できることなら子供ミュージカルを再演できたらと願っています。(子供ミュージカルの主旨文はこちらへ

長年共に活動をさせていただいている坂田明(as,cl)さん、酒井俊(vo)さんのバンドのメンバーとしての仕事は、おそらく今年は減ることと想います。坂田さんは別のユニットを組まれて活動されるご様子ですし、酒井さんの”四丁目ばんど”は昨年末のライヴをもって休止になりました。

仕事が減れば生活は苦しくなりますが、自由な時間を持つことと半反比例することになるわけで、その分、あと12年間で自分ができることを見据えながら、きちんと足跡が残るような仕事を目指したいと思います。となると、最終的にはオルトペラ・アンサンブルかなあと。

と、新年にあたって所信表明のようなことを書きましたが、ま、えっちらおっちら、ああでもないこうでもない、と闘いながら少しずつ進んでいくのでしょうね。

なお、今のところ、このwebに掲示板を設けること、またこの洗面器をブログにすることは考えていません。ご感想、ご意見、ご批判などございましたら、どうぞ遠慮なく直接e-mailなどをお送りくださいませ。誠意を持って対応いたします。

みなさまにとって、穏やかで、健やかな、一年でありますように。


1月1日(日)  編曲の時代

昼間、たまたまNHKのFMラジオを聞いていたら、『冗談音楽(コミック音楽)』をやっていた。

”杉ちゃん&鉄平さん”というピアノとヴァイオリンのデュオ演奏で、例えば「剣のずいずいずっころばし」「アイネ・クライネ・3分クッキング」「琉球音階によるモーツァルト“ハイサイトルコ行進曲”」「美しき青きドナウ河のさざなみ殺人事件 特別編」「ブルース サザエさん」と題された曲を演奏していた。

これらの題名を見ればすぐに察しがつくように、これらはハチャトリアン作曲の「剣の舞」と日本の歌である「ずいずいずっころばし」をアレンジしたものだったり、モーツアルトのトルコ行進曲をいわゆるヨナ抜き音階で演奏したり、サザエさんを三連のブルーズ・フィーリングで演奏してみたり(彼らは「アニクラ」(アニメとクラシック曲の融合言葉)と言っていた)・・・といったものだった。
他に、ヴァイオリン奏者は救急車の音や尺八のような音、人がしゃべっているような声なども演奏していた。これらを表現するには超絶技巧が必要らしい。

要するに、”パロディー”だ。編曲作業をするために、常に”ネタ”を探し求めているらしい。司会のはかま満緒はさかんにスパイク・ジョーンズの名前を挙げ、このユニットは今年大ブレイクするだろう、と言っていたけれど。

(私がスパイク・ジョーンズの存在を知ったのは、'80年代後半の頃だったと思うが、故篠田昌巳さんの西日がよくあたる部屋でビデオを見せてもらった時だった。二人でゲラゲラ笑ったことを思い出す。)

彼らは無論クラシック音楽を充分に学んだ人たちで、このユニットを組んで2年くらい経つらしい。クラシック音楽というと日本(だけ、と彼らは言っていた)では堅苦しいとか、しかめっ面をしながら聞くとか、あるいは退屈で寝てしまう音楽だとかという印象が濃いけれど、いや、実はこんなに楽しい音楽なんだ、ということを僕らはやってみたかった、と言っていた。

二人とも、特にヴァイオリンの人は基本的にはクラシック音楽も仕事としてやっていると言っていた。そっちはそっちで仕事して、こっちは遊び、息抜きでやっているとも。遊び、といっても、単純に遊びという意味ではないとのことだったけれど。

そして彼らが言うには、モーツアルトにしても例えばビバルディの音楽を完璧にパロっていて、そういうことに非常に長けていた作曲家だったわけで、僕らはそういうことをやっているのだとも言っていた。

大晦日の紅白歌合戦ではずいぶん多くのストリングス、特にヴァオリン奏者がバックで演奏していたような気がする。また、こうしたコミック音楽ということでいえば、先に共演した芸大を首席で卒業したという真部裕(vl)君も既に10年近くやっていると言っていた。

時代は変わり、時代は廻る。

こうした編曲をめぐる流行現象は、確かに楽しく、面白い。が、私、持ち前の糞真面目さを発揮して言えば、彼ら自身が言っているように、それはあくまでも”遊び”であり、音楽にとっては表層的なものだと思う。ここでは音楽の本質やとても大切な何かが問われているわけではないだろう。

クラシック音楽の状況はよくわからないが、クラシック音楽を学んだ今の20代の若者たちが置かれている音楽環境は、例えば40年前とはずいぶん異なっているのだろう。少なくとも狭い世界を開こうとしている意思は感じることができ、それは決して悪いことではないと思う。

また、こうした傾向はアストル・ピアソラ(バンドネオン)が作曲したものを、多くのクラシック奏者たちが演奏し始めた頃から顕著になっていると感じる。大雑把に言えば、ピアソラの曲の出現で、クラシック奏者には演奏の場や機会が大幅に増えたのではないだろうか。ピアソラ自身が格闘したものとは離れて。

さらに、大友良英(g,turntable)君や菊地成孔(ts)君たちの歌手をめぐる一連のアルバム作りは、編曲作業によって支えられていて、それが多くの若者たちに受け入れられているらしい。その方法は今から20年くらい前には出現している。いや、現代美術、現代音楽という大枠で考えれば、多分もっと以前から。

もう少し遡れば、4〜5年前頃くらいから、激しく咆哮するフリー・ジャズがヒップ・ポップを演奏する若者たちや、いわゆるDJがいるクラブで歓迎された現象に続くものだろうと想う。今や、居酒屋でもラーメン屋でも美容院でも、日本じゅうのありとあらゆる所で、そのBGMが”ジャズ”になっている時代にあって。

過去、私はピアソラの洗礼も、ジョン・ゾーン(as)(当時、ニューヨーク・ノイズ派と呼ばれていた音楽)の洗礼も受けた。いわば、'80年代ポストモダンの時代を同時代的に生きたように思う。明らかに、強烈に影響を受けているといってもいいと思う。

歌手をめぐっては、'80年代後半に天鼓(vo)さんと、'90年代初めに巻上公一(vo)さんと出会っている。彼らと演奏して学んだものはたくさんある。そして、その背後にいるのはフレッド・フリス(g)であり、ジョン・ゾーンだ。

ピアソラをめぐることを言えば、まだジャズ・ピアノを習っている頃('80年代前半)、故高柳昌行(g)さんがまだ無名だったピアソラのことを盛んにおっしゃっていて、当時の師匠だった高瀬アキ(p)さんと、初来日のコンサート終演後に楽屋までピアソラを訪ねて行ったことを思い出す。

その後、斎藤徹(b)さんに誘っていただいて、ピアソラの曲を演奏していたのは'90年代前半。バンドネオン奏者がまだ売れる直前の小松亮太君に替わって、ごく短期間のライヴをこなし、最後にCDを出して('97年録音)、このユニットは解散した。

ジョン・ゾーンとの出会いはLPを通してだったが、それはこれまで聞いたことがない新鮮なサウンドで、非常に衝撃的だった。「なんだ、これは?」というようなショックだった。それでやはり初来日の時に足を運んでいる。そう大きくもないテーブルに様々なバードコールや笛などを並べて、取っ替え引っ替えピーピー、ピュリュールと吹いていた。

その後、ジョンのプロデュースによる、巻上さんのレコーディングに1曲だけ参加('92年)したり、日本でジョン自身のコンダクトによるコブラやベジーク('94年 ベジークは日本初演)にも参加することになるとは、思ってもいなかったけれど。

今をときめく大友君の新宿ピットインのデビュー('87年)は、私がやっていたORT(オルト)というユニットでの朝の部の演奏だ。彼がターンテーブルやハンドメイドのギターなど、たくさんの器材を運び、一所懸命演奏しているのに、西荻窪・アケタの店の昼の部で、お客さんが私を含めて3人しかいなかったような時代も、共に呼吸している。あの頃はコーヒー一杯で、ああだこうだと散々いろんなことを話し合った。

思いがけず、少々過去を振り返るようなことになったが、思えば、'80年代後半にORTがやっていたようなことは、確かに私の中に生きている。
ORTのメンバーだった人たちはそれぞれまったく異なった道を歩いているが、今日の私は、ポストモダンの延長線上に生きたからではなく、当時ブレヒト・ソングという強力な歌に出会ったことで獲得したことと、ORTを休止宣言(実質解散になった)してから、しばらくソロで活動したことが支えているように思う。

さらに言えば、歌については故篠田昌巳さんからも、即興演奏については斎藤徹さんからも、実に多くのことを学んでいる。

人の顔が見えないコミュニケーションが跋扈する時代にあって、それがさらに深まりつつある時代にあって、ライヴ(生演奏)が果たす役割は何なのだろう?

右と左を入れ替えたり、横になっているものを縦にしたり、音色やサウンドを並べ替える編曲。コラージュ、パッチワーク。パズル、ゲーム。周囲の音響環境が変えられたことで受ける錯覚。などなど、そこに新鮮さと驚きを感じ、そうした音楽が受け入れられているらしい時代を、私は静かに見守ろうと思う。

それよりも、20世紀にデューク・エリントン楽団だけが唯一果たしたこと、「ノヴェンバー・ステップス」を作曲した武満徹がしようとしたことの方に、私は深い共感をおぼえる。
それはORTをやっていた時、フルートの音色が欲しいというだけで、フルートを入れたアレンジをして、そういう考え方では豊かな音楽は生まれないということを思い知ったこととリンクする。

そして、自分を問う、自分自身を問題にする、ということがない音楽は、私はダメだと思う。私がエリック・ドルフィーから、敷衍すればジャズから学んだことは、そういうことだったと思う。
自分の、そして他者の「内なる声に耳を開く」ことが、音楽の豊かさを生み、人との関係をたをやかに結ぶのではないか、と私は思う。


1月9日(土)  ピアノ弾きという仕事

  銭湯の水風呂に浸かりながら、かう考へた。
  智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
  兎角に人の世は住みにくい。
  住みにくさが高じると、誰もいない所へ引き越したくなる。どこへ越し
  ても住みにくいと悟つた時、言葉が生れて、音楽が出来る。

           (夏目漱石 『草枕』 より arranged by くろりん)


寝耳に水。元旦早々に届いた仕事のキャンセルのメールは、私を少々腹立たせ、気落ちさせた。こんなことは音楽の仕事をやり始めてから初めてのことだった。元旦にメールで伝えてくるというのもいかがなものかと思うが、どうにもそうせずにはいられない性格の人、あるいは精神状態だったのだろう。

この仕事は約一年半くらい前から何回も念を押されていたコンサートで、ほんのつい二週間前には、それについてまたいろんなことを考えていると笑顔で話していた人からのものだった。それゆえ、どうもうまく納得がいかなかった。また、私は私なりに、パートナーとして私を選んでくださった時点から、去年のコンサートに至るまで、少しずつ少しずつ信頼を築いてきたつもりでいただけに、正直、ひどく傷ついた。

と、愚痴を言うのは簡単なことだ。相手をそういう気持ちにさせてしまったのには、私にも原因があるのだろう。これは謙虚に反省しなければならない。

多分、私の仕事のやり方、考え方に少々問題があるのだろうと思う。

その人の過去のコンサートのビデオなどを何本か見て、その人はそれまでと少し違ったコンサートにしたいので、私に声をかけてくださったのだろうと思った。だから、リハサールを重ねる中で、感じたことを正直に伝え、二人でできることについて思い切った提案やいろんな意見を率直に言った。

が、それが”過ぎた”ことだったのだろうと思う。過ぎたるは及ばざるがごとし。まったく余計なお世話。申し訳ないことをしたと思う。

私は依頼されているのだから、その人が思い描くイメージ通りに、ピアノの伴奏をしていればよかったのだろう。いわば私は雇われているわけで、余計なことは一切言わずに、その人が望むように自分の技術だけ、音だけを提供すればよかったのだと思う。それも仕事だ。

人は誰でもできるかぎり自分に誠実でありたいと思っているだろう。そして音楽家もまた自分の音楽に誠実であろうとしているだろう。

自分の心をみつめてみたら、これ以上いっしょに音楽をするのはつらい、私とあなたは合わないということで、1月3日の電話は切れた。よく話しをきいた上で、関係も切れた。

時として、どうも私はあまりにストレートに突き刺すようなことを言ったりしてしまうところがあるようだ。相手の立場に立てば、これはちょっときついかもしれないという意識が多少ありながらもやってしまうような。無論、相手を見てするけれど、多分その辺りの判断が私はまだ甘い。そしてそれは想像以上に他者を傷つけてしまっていることもあるらしい。それが自分なりの誠実さゆえだったとしても。

人間関係の結び方、保ち方といったようなことが、私はきっとへたくそなのだろうと思う。幼稚だと言ってもいいかもしれない。関係の潤滑油になるような柔らかい言葉遣いや、ユーモアにあふれた婉曲的な言い方などを、もっと学べきなのだろう。あるいは、この辺りは妙に個人主義的かもしれず、この国では摩擦を生むような思考をしているのかもしれない。だいたい、こんなところに、敢えて書かなくてもいいのではないかと思えることも、こうして言葉にしていること自体が問題かもしれない。

と周りを見れば、学ぶべき人たちはたくさんいる。もっと人間を練らないとだめだなあとつくづく思う。私も一度大吐血でもして、『硝子戸の中』から世の中を見ないとあかんのかもしれまへん。


1月11日(水)  冬の木

すっかり葉を落とし、樹や枝だけになった裸の木を眺めているのが、何故か昔から好きだった。そこに”夕方”がつくと、もっといい。

今日は一日何もしないことにして、雑事を済ませ、本屋とCD屋で2時間は過ごした。生まれた時からずっと見てきている欅並木。それに面した、風の吹くテラスがお気に入りの場所で、買ったものをほどきながら、コーヒーを飲みつつ、ぼうっと木を見ていた。テーブルの上では菊池成孔君とチャールズ・アイヴスがこっちを見ている。(音楽書籍に割り当てられた狭いスペースに、菊池君の本だけでも5〜6冊はあって、そのうち3冊は平置きだったから、世間的にはキャッチーな存在らしい。)

裸になる。

人前で裸になるのは容易ではない。少なくとも私にとっては。第一、見たくもないものを見せられた日にゃあ、みなさま方に迷惑なだけだ。けれど、どんなに阻止しようとしても、どうやらそうなってしまう仕事を、私はしているらしい。

昨日、とても久しぶりにソロで演奏する機会に恵まれた。知名度も集客力もない私に、ソロをやってくれと言ってくださった、無謀かつ勇気あるマスターに心から感謝する。

で、先月くらいから何をやろうかとずっと思っていたのだが、ちょうど20年前、すなわち1986年の1月に、自分のカルテットで初めて新宿・ピットイン、朝の部に出演したことを思い出した。それで、思い切って自分の大回顧展のようなライヴにしてみることにした。
かつ、敢えて1991年に録音した処女CD(ソロ)と似たような構成、曲でやってみた。「処女作にすべてがある」とは近代文学で言われている言葉だ。
年が改まってから、どうも「初心忘るべからず」という気分で、少々気持ちが過去のまとめに向かっている気がするが、ここでいっちょ、裸になってみることにした。

'86年といえば、私はまだ出版社に勤めていたし、それより以前に少しずつライヴ活動はしていたから、例えばデビューしたというような正確な年というわけではない。また、誰かのバンドのメンバーとして雇ってもらったわけでもなく、大学ではジャズ研に在籍していてプロになった先輩や友人がいたというわけでもない私だ。たから、最初から自分のユニットで新宿・ピットインで自作曲を演奏するというのは、私にとってはえらいこっちゃ、だった。

当然、胸はドキドキ、心臓はバクバク。そんな自分が思いがけず遭遇したのは、ドラマーが寝坊して遅刻するという事態だった。ちゃんとリハーサルもしたのに・・・どうしようと、テンパッていた私は気が動転。他の二人は既に来てくれていたが、かくて第一曲目はソロで演奏したのだった。

人生は思う通りには決していかないし、自分の作った曲は自分が描いているイメージ通りに演奏されることは絶対ない、ということを、この時、私は決定的に経験した。

そんな思い出話も差し挟みながら、ソロ演奏を終え、朝飯を食べてから何も食べていなかったことに気づき、帰り道、車を停めたら、何か煙のようなものが私をわあーっと包み込んだ。

いったい私は何をやってきたのか。

何も変わっていないのではないか。いや、変わることが必ずしも良いとは限らない。いや、変わるべきだ。そもそも人間なんて、そんなに変わらないものなんじゃないの。あら、ピアノを弾く技術や音色への配慮やタッチや表現は、ちったあ変わったんじゃないの。でもまだまだまだまだでしょう・・・云々。

私は作曲とか編曲とか集中して練習するとか、何か仕事にとりかかる前は、家を掃除する。何か前に進もうとする時に、それまでのことをきちんと整理しておきたいというような感覚があるようで。

とどのつまり、これから、だ。さーて、曲を作ろうか。・・・しかし、作曲するという行為は、いったいどういうことなのだろう。

という気分で、木をぼうっと眺めてから、突然髪を切りに行き、最後も突然映画『Always 三丁目の夕日』を観て家に戻った。


1月12日(木)  坂田藤十郎

坂田藤十郎襲名披露公演『寿 初春大歌舞伎』を歌舞伎座へ観に行った。正月らしく、舞台はとても華やかで、別にさしてめでたい気分でもないのに、燗酒に鯛でも食べたい気になってくる。

私が行ったのは昼の部で、二番目の『夕霧名残の正月』の最後に、芝居からつなげる感じで、簡単な口上があった。(正式な口上は夜の部にある。)ユーモアがあって、いかにも関西風で軽妙だった。

『奥州安達原』には中村吉右衛門、市川染五郎など、私でも名前と顔が一致する人たちが出演し、江戸歌舞伎の型をきっちり観た感じ。この話しの中には、駆け落ちをして家を出た、今は盲目となってしまった女性が両親の家を訪ね、許しを乞う場面などがあるのだが、この女性を演じた中村福助の”泣き”はすごかった。人間、ああまであんなに長く泣き続けるのはたいへんなこっちゃ。それに、この福助さん、引き続き、次の演目『万才』にも踊りで出たわけで、これがまたこの上なく美しく、すごい体力だなあと思った。

最後は『曽根崎心中』。以前、人形浄瑠璃で観たことがあるが、まったく異なった印象になったのが面白かった。関西弁で話され、上方歌舞伎といった感じ満載で、笑いも誘う演出が施されていて、所作がなんとなく柔らかく、人間味に溢れている。印象しか残っていないが、文楽の方はもっと抽象的で、悲劇的だったと思う。単に好みということを言えば、多分私は文楽の方が生には合っている気がするけれど、歌舞伎の方も充分に堪能。

231年ぶりに、この坂田藤十郎という名を復活させた、もと中村鴈治郎。昨年の大晦日で74歳だという。驚いた。すんげえええ体力である。『曽根崎心中』などは既に50年も演じてきているとのことだが、それにしても、昼の部では約1時間半強の演目に二つ、夜の部でも同様に一つ、出演している。朝から晩まで、これを毎日繰り返し、しかも東京だけではなく、昨年12月には既に京都で、これから大阪、名古屋とそれぞれ一ヶ月公演をするらしい。ジャズ・ミュージシャンなどは爪の垢を煎じて貰っても、到底できないことだ。すごいなあ。

きちんとした一級のものを観ると、自分もしゃんとせにゃあ、と思った一日になりにけり。


1月13日(金)  私宅のピアノ

久しぶりに私宅のピアノの調律。去年後半はツアーがあったり、週末はほとんどいなかったり、演劇の音楽も2本手掛けたり、で調律をさぼっていた。気が付けば、一昨年ブラームスの曲を必死に練習していて、調律師さんに「ええっ、これ、やるのおおお」とのけぞられて以来のことだった。とてもプロとは言えないメンテナンスぶりだ。

タイマイはたいて修理したはずのピアノ室のエアコンが再び壊れ、楽器に悪いとは知りながら石油ストーブを購入し、楽器には一番良いと思われるオイルヒーターを買った。案の定、石油ストーブを使うようになってから、一気に調律が狂い始めた。これでは自分も相当つらいが、レッスンに来る生徒にも申し訳ない。

今回の調律でも、楽器についていろいろ学んだ。調律師さんはまた私が見たこともない細かい部分を手入れしてくださった。ふえ〜っ、と感嘆しきりの私。

現在私宅にあるグランド・ピアノは、出版社に勤めていた時にしこしこ貯めたお金で新品で購入したものだ。演奏活動をし始めた頃、御茶ノ水にあるライヴハウス・ナルのピアノを替えるため、いっしょに見に行って欲しいと、亡くなったマスターに言われ、青山のショールームに行ったのだが、その時、自分のピアノも買うことに決めたのだった。

その時、いっしょに行ったもう一人のピアニストが、この日(13日)突然訃報が入った本田竹廣(p)さんだった。二人であれこれ試弾して、デュオで「処女航海」なども演奏した思い出が蘇る。

本田さんと言えば、渡辺貞夫カルテットのLPで聞いた演奏。また、自分の学生時代、田園コロシアムにネイティヴサンの演奏を聞きに行ったことがあるような存在だ。だから、いっしょにピアノを買いに行くなどということは、当時駆け出しの私にとっては胸はバクバクものだった。

振り返れば、最後にお会いしたのは2003年、四国・城辺町で毎年行われているジャズ・フェスティバルになる。3バンドの演奏が終わった最後にジャムセッションがあり、ピアニストは3人いたから、入れ替わり立ち替わり、時には連弾で演奏した。その時、私の右隣で演奏していた本田さんが、私の演奏に「イエーイ」と言ってくださったのが、最後に聞いた言葉になってしまった。

心からご冥福を祈る。

どんな演奏家にとっても、楽器を買い替えるというのはそれ相応の勇気がちょっと要る。私宅のピアノは調律師さんからは最初からハズレだと言われているもので、整調、調律にはいつも苦労をかけている。自分があとどれくらい演奏活動をしていくかを視野に入れると、もうそろそろ買い換え時かなと思う。

良い楽器が欲しい。とはいっても、他の楽器奏者と違って、他人に聞いてもらえるチャンスはまずめぐってこない。でも、練習するピアノが変われば、演奏も変わる、と調律師さんはおっしゃる。私もその通りだと思う。

でも、決して安価なものではないから、やはり決心が要る。それに面倒なのが”愛着”というやつだ。私宅のピアノにはこんな思い出もくっついてしまった。いっしょにピアノを選びに行った人たちは、既に二人とも天国で笑っている。困った。


1月16日(月)  ガンボスープ

自由が丘にサキソフォビアの演奏を聞きに行った。その店のwebでは大々的に”ガンボスープ”が宣伝されていたので、楽しみにしていた。が、どう見ても味わっても、スープというよりはペースト状になったカレーだった。およそ描いていたイメージと異なる。代々木のビストロ・ひつじやのそれは確かにスープ状らしいのだが。

演奏はやっぱり私の好み。彼らに室内楽だと言ったら、そんなことは考えたこともなかったらしく笑われてしまったが、私には極上のチェンバー・ミュージックだった。二枚目のCDを出してから、アンサンブルが緻密になり、とっても良くなったし、ユーモアを含んだ演奏も全員のコンセンサスがある程度取れてきているように感じられた。

久しぶりに竹内直(ts.fl,b-cl)さんのバス・クラリネットの演奏を聞いたのだが、すんばらしい。井上juju博之(bs,fl)さんがバリトン・サックスで奏でる音は、全体のリズムをしっかり支えている。岡淳(ts.fl,篠笛)さんが書く曲は、とても彼らしい歌うメロディーに溢れている。緑川英徳(as)さんの音色は全体のアンサンブルによく溶け込んでいる。

うーしっ。


1月17日(火)  温泉に浸かったような音楽

約1年半ぶりに、小森慶子(cl,sax)さんとデュオで演奏。今回は全曲オリジナル曲で挑んでみた。

らば、頭で考えるでもなく、胸に突き刺さるでもなく、心臓に衝撃を受けるわけでもなく、下半身がしびれるでもなく、なんでも、身体全体がじーんと温泉に浸かったような、不思議な感じの幸福感があったという、これまで聞いたこともないような感想をお客様から頂戴した。お、お、お酒の飲み過ぎとちゃいますやろか?

少しずつ続けていきたいデュオに候。


1月18日(水)  有頂天

母の誕生日祝に映画『有頂天ホテル』を観に行く。エンタテイメントで、特に残ったものはないが、「言いたい奴には言わせておけばいいのよっ」に三谷幸喜のメッセージを感じる。

でも、母には『Always 三丁目の夕日』にしてあげればよかったかなと。したらば、ご本人、翌日(19日)午前中に観に行ったと、後で聞いた。昔日を思い出して老人性鬱病にでもなったらどうしようかとあらぬ心配もしてみたけれど、楽しんだようなので、よかった、よかった。


1月24日(火)  言葉

言葉を使うことは人間に備わっている力。けれど時として、これを使ったり、上手く相手に伝えるのは難しい。相手の話を聞いたり、その内容を読み取るにも、それなりの能力が要る。

昔からある媒体は手紙。ここ十年くらいはどんどんe-mail。

私宅に電話が入ったのはいつのことだっただろう。同じ敷地内にあった祖父の家には電話があって、私が幼稚園くらいまでは、家に電話がかかってくるとブザーでしらせてくる小さな器械があった。否、有線のトランシーバーのような機能も持っていたかもしれない。人の声が聞こえてきたような気もする。ともあれ、それがブーブーと鳴ると、父は下駄をはいて全速力で150mくらい走った。

ファックスが入った頃のことはよく憶えている。出版社に勤めていた'80年代半ばのことで、下っ端の私は作家の自宅などへ原稿取りによく行っていた。したらば、ものすごく大きなコピーのような機械が一台導入され、電話回線を通してなんと文字が送られてくるではないか。仕組みはさっぱり理解できなかったけれど、これにはへえ〜っと驚いた。

このファックス機の出現により、原稿取りの仕事は減り、途中でさぼってジャズ喫茶でコーヒーを飲んだり、パルコや東急ハンズ(仕事場は渋谷にあった)に寄って店を冷やかしたりして帰ってくるというようなことができなくなった。ただし、原稿のリライトには苦労した。例えば、生原稿でも読み取りにくかった水上勉さんの文字は、ファックスの文字だともっと判読しにくくなった。

それにしても、日本のジャズ・ヴォーカリストと言われる人たちは、主としてアメリカで生まれた昔のソング(懐メロ)を英語で歌うということについて、どう考えているのだろう?それは器楽演奏とて同じことなのだけれど。

そういう疑問はジャズに関わった時からあったことだが、そう思う私にとって、例えば酒井俊(vo)さんと出会ったことは幸せなことだった。ジャズ・クラブで日本語の歌をうたうことに禁止命令が出たこともある。何故、どうやって、この日本語の歌をうたうかということについて、みんなで深夜遅くまで話したこともある。様々な苦労や格闘が伴ったが、私はたくさんのことを学んでいる。

その意味では、俊さんとは異なるが、澄淳子(vo)さんもまた日本の歌あるいは日本語と英語のことに向き合っている一人だと私は思う。20日(金)には久しぶりにいっしょに演奏した。吉見征樹(tabla)さんにもお願いして、3人で楽しい一晩を過ごした。

24日(火)には金丸正城(vo)さんと演奏した。上記の記述とは矛盾するが、現在、私が唯一ジャズ・ヴォーカリストと呼べる方と演奏している仕事と言っていいと思う。金丸さんが何故私に声をかけてくださるのかはわからないが、私は金丸さんのジャズという音楽に対する姿勢を尊敬しているし、いっしょに演奏する時は文句なく楽しく、かつ非常に勉強になる。この日の最後のステージは、お客様が少なくなったこともあるが、金丸さんはマイクは使わずに歌われた。いい夜だった。

21日(土)、東京にけっこう雪が降った日だったが、高校時代の友人たちとの新年会に出席した。友人たちからは「昔から大人だったわよねえ」と言われたりもしたが、自分では単に引っ込み思案な性格だっただけだと思っている。また、こういう席では私はどうも聞き役にまわることが多いようで、自然と寡黙になってしまうようだ。それが時として近付き難いオーラを発しているかの如く感じられるようで、他の理由もあるのだろうけれど、反感を買っているらしいことも感じられる。ただそこにいるだけのつもりなのがだ、少し反省。うーん、私は一般的な人付き合いや会話が下手くそなのかもしれない。


1月28日(土)  バッハ以前

マウリツィオ・クローチのコンサートを聞きに、武蔵野市民文化会館へ行く。武蔵野市はけっこう文化度が高いとは聞いていたが、実際どうも高いらしい。けっこう健闘している。そして、市の役員がコピーしたと思われる手作りのパンフレットには、「拍手は音楽が鳴り止むまでお控えくださいますよう、ご協力お願いいたします」と書かれている。

前半はチェンバロ、後半はオルガンの演奏。チェンバロというのはほんとに音が小さいのだと感じた。あのオルガンにはmidiのような器械が付いているのが見えたけれど、あれは何だったのだろう?かつてヨーロッパで聞いたことがあるパイプオルガンのそれとはなんだかずいぶん印象が異なった気がする。

プログラムの中で、もっとも私の関心を引いたのは、冒頭の「2人のナポリ楽派の巨匠」として演奏された、ジョヴァンニ・デ・マック(1550年〜1614年)が作曲したものだった。なんだかちょっと妙だった。ポリフォニックなメロディーの調整がなんだかへんてこりんに耳に届いたからだ。

当然、かのJ.S.バッハ(1685年〜1750年)の曲も演奏されたが、最後の方に演奏されたオルガン曲の数々の中で、不覚にも深い眠りに落ちてしまった。気がついたら終わっていた。

この日は「J.S.バッハの音楽語法の起源」と題された曲も用意されていて、バッハより約20年前に生まれているゲオルグ・ベームやニコラウス・ブルーンスといった作曲家の曲も演奏された。

誰もがそうだろうと思うが、かのバッハだって、それ以前の様々な音楽に影響を受けて曲を書いたわけで、そういう意味でこうしたコンサートに初めて行ってみて、得たことは大きかった。友人がしきりに言っていたことが少しわかった気がした。

ということで、翌日、さっそくCDを探し求める。また山野楽器のお姉さんにお世話になってしまったが、とりあえず、ルネッサンス期のダンス音楽とゴシック期の音楽が収められているものを買ってみた。


1月29日(日)  人形のリアリティ

新国立劇場・小劇場へ、人形劇団ひとみ座の創立60周年記念公演『リア王』を観に行った。十年前の創立50周年の時の『リア王』も観ているのだが、いやあ、これが、すんばらしかった。

私は能楽や歌舞伎、それに人形浄瑠璃も時々観に行くが、今回のように、等身大の人形が作り出す複雑な深い表現を感じたのは初めてだったように思う。文楽もそうだが、人形が作り出す世界のリアリティ、その人形を通して感じる”人間”の恐ろしさのようなものが心底感じられた舞台だった。

その人形たちを生き生きと動かしているのは二人の人間(文楽は三人)なわけだが、その人形遣いの所作、表現が、まるで人間のように生き生きとしている。そして、セリフを言っているのはその人形遣いの人なのだが(文楽は義太夫と三味線が作り出す語りと謡いと音楽のみ、人形遣いは決して言葉は発さない)、特にリア王の役を演じた方の声、表現はすばらしかったと思う。

そして音楽は生音。冒頭も乞食たちが客席の後方の扉から現れ、それは素朴な笛とギターの演奏だった。音響効果として使われているものも、例えば有名な嵐の場面では、手作りの”風の音・創作機”が活躍していた。それを人が一所懸命回している姿が見え、雷鳴を表す太鼓を人が叩くのも見えた。

シェイクスピアの作品には珠玉の言葉がたくさんあるが、誤解を恐れずに言えば、それらの言葉に頼らない世界、人形たちがまさにそこで生きていることで感じることができる世界が、舞台には実現されていたように思う。人形があのように自立するということは、下手な生身の役者が感情移入してセリフを言うよりも、ずっと観客に訴えるものがあるように思う。

そういう意味では、その意味や立場は異なるが、能楽で言えば直面(ひためん)に相当するような”道化”役は、非常に難しいポジションにあるように感じた。物語の筋とは直接関係ない少し次元の異なる言葉や、シェイクスピアらしいアフォリズムに溢れた言葉を話す役回りだったように思うが、私には少々セリフが聞き取りにくかった。こちらの頭がついていかなかったところも多々あるとは思っているが。この道化の表現がもうワンステップほど伴えば、作品の多角的な側面がもっと広がったように感じられたのが、少しだけ残念。

美術は無論、片岡昌さん。人形も美術装置もすてきだった。で、帰宅してパンフレットをよーく見たら、なんと、片岡さんは乞食役で出演されていたことを知ったのだった。

で、ひとみ座のweb上でのご自身のコメント。
「舞台の端に、はみ出てまいります。乞食です。見えない目で世の中を見てやろうと思ってます。でも、流されております。よろしく……。」
すてきだなあ。

とにかく、心が震えた舞台だった。


1月31日(火)  ちと思ふ

即興は方法ではない。

それは、例えば、斎藤徹(b)さん、千野秀一(p)さん、灰野敬二(g)さんが教えてくださったことだと、私は思っている。

それから、日本の即興シーン(のみならず、ジャズ・シーンや現代音楽といった、世の中ではマイナーなシーン)をきわめて狭く、排他的にしている要因の一つには、甘えの構造があると思う。聴衆は演奏家のお座敷やお家に呼ばれているわけではない。客に、その場所に、馴れ合い、甘えている状況からは、いい音楽は生まれない。

電車通勤になった太田惠資(vl)さんがいみじくも言っていたように、時間をかけて足を運んでくださり、音楽を聞くのにお金を払ってくださるお客様は、実に尊い。感謝してもし切れない。

三波春夫は言った。「お客様は神様です」

それにしても、以前、三波春夫のカセットテープを高速道路のサービスエリアで買ったのだが、これが実に素晴らしい。日本語のカツゼツといい、歌唱法といい、なんたるちあ。多分こんな歌をうたえる人は日本にはもういないと思う。




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