Paster Keaton Essay「Airs」

EPISODE:6 混沌に至る諍い、そして

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 1989年12月
 アビアンカ航空ボゴタ発N.Y.行きB-707機がJFK空港に着陸途中、墜落。
 死傷者多数。
 1990年3月
 同航空ボゴタ発メデジン行きB-727機がテロによる爆発で墜落。
 ほぼ全乗員乗客死亡。

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 JP4とタイヤの焼けこげた臭い。
 漣はいつもと同じようにエメラルドグリーンの沖合から打ち寄せている。

 スラストリバーサーを解除し、アイドルに絞られたタービン音が残滓の余韻を機体に
響かせて客室内の静寂を強めている。

 どれ程の時間だったのであろうか。
 どれ程の時間でしかなかっただろうか。
 ゆっくりと顔を上げ見回す乗客たち。
 海まで残り4m弱。
 命拾いしたというのに、やれやれーと不満げな表情を浮かべ自問自答するキートン。
「人は死ぬ瞬間、人生が走馬燈のように駆け抜ける、と言われているけれど何もない、
あ〜あ、明日の朝刊に日本人客犠牲者1名と出るのか、やだなあ、と思っただけだ」
 ――と。
「見てきた人が言っているんじゃ無い訳だし、作家の産物だな、これは」

 窓も、外壁もない、到着カウンター&ゲート(実は出発カウンター&ゲートでもある)
 出迎えの人々と、乗客たちの一時の感涙の幕が開いて喜びの喧噪が爆発した。
 眼前のカリブ海はいつものように潮騒を寄せては返し、柔らかな匂いと強烈な日差し、
椰子の木陰も年々歳々繰り返している。
 売店でペプシを飲み干しロビーから外へ出て、ふと振り返る。
「…」
 まあ、いいさ、と肩で話したキートンはタクシーを呼びつけ、市内のホテルへ向かった。

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    時間軸は遡る…

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 アメリカによる、パナマ陸軍ノリエガ将軍逮捕を目的としたパナマ軍事侵攻は
89年の12月29日早朝(現地時間:コロンビアとパナマは国境を接し、同一の
時間帯を用いる)開始された。
 アメリカ及びパナマ国内の放送を傍受したラジオ局によりコロンビア国内でも
ラジオ番組は侵攻の模様を刻一刻と報じ続けていた。キートンは局舎に出勤した
際に仕事仲間から事態の深刻さを受けた。

 明後日、ビザの更新の為の一時出国&再入国と年始休みのためにパナマを訪れ
る事になっていたからであり、午前中は局舎で仕事を、午後からボゴタに移動して
明日出発する予定だからだ。
「世の中、簡単にはいかないって訳か」
 早速ボゴタの現地法人に連絡し、エアチケットの解約、行き先の変更手続きを
開始することを確認し、午後は予定通り移動することになった。
 コロンビア国内はアメリカを積極的に指示することはなかった。
「世界の警察、そういうもんか、侵攻することが」
 パナマの現実が判るのは帰国後である。
 12月上旬の月例報告で上京(サンタフェ・デ・ボゴタへ)したキートンは駐在
スタッフと年末の予定を話し合い、ビザ更新のスケジュールを組み込んだのだ。
 行き先をパナマにしたのはそこが自由貿易:関税のない;地域だからだ。
 つまり、駐在員からの依頼物品の購入も含まれていた訳である。
 関税がなく、なおかつ店主との交渉で安く値切ることも可能だからだ。
 早速、ボゴタ現地法人に到着するなり階段を4階まで上り社長室へと入っていく。
 そこで、行き先がパナマからエクアドルの首都キト(Qito)に変更になった旨を聞く。
 2階に降り、そこで駐在員と経緯を話し合い、チケットと工事関係者も2名、ビザ更新で
同行することを聞かされた。
「いや、別に構いません。多い方が楽しいですし、
 エクアドルに詳しい方がいる方が迷いませんから」
「3階にいるから会ってくればいいよ」
「はい」
「それと納会もやっているから後で顔見せろよ」
 年末年始のスケジュールを調整してコロンビアに再入国後、社長宅での新年会に
出向くことを打ち合わせ、9時を廻った夕食をしめて近くのホテルへとキートンは
徒歩で帰った。
「観光ぐらい、出来ればいいな」
月に一度の日本食を思い出しながらベッドに寝入った。

to be continued !!


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