Paster Keaton Essay「Airs」

EPISODE:14 Depth

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  日本食らしいものとは活き作りといいきってもいい。

 それは刺身であり、寿司である。日常生活で我々が食する料理は
明治以降に食卓に上がったものが大半であり、家庭料理と目される
ものも半分以上は戦後に普及したのである。
 つまり、大別すると以下のようになる。
 ・活きもの
 ・雑穀と菜類(これらは煮物である)
 ・魚類と貝類と藻類(流通の貧弱さから乾物)
 天麩羅や蕎麦等の麺類は?と思う人もいるが時代背景を考慮し
ないといけない。これらは家庭で食されていたのではなく、外食、
店屋物であったからだ。
 天麩羅油は庶民が十分に買える金額ではなく(防火上からも油の
大量所有は堅く禁止。この為、行燈や提灯の暗さは想像を絶する)
又、蕎麦など素人が気軽に打てるものでもなく(冷蔵庫はない)、
庶民も大名も、今から見たら変わらない。白米か否か繊維質か、
否かの差でしかない。
 食物の保存方法についても瓶詰めや缶詰が普及するのは昭和初期で
あり(高かったのです)昔ながらの漬け物としたり、冬季に乾燥させ
たり薫製にするしかなかった。冷蔵保存は東北や日本海側のそれこそ
冬場の方法であり、太平洋側では望むべくもない。
 レトルトの代名詞であるカレーは昭和初期、陸軍にて軍隊食として
採用したことが各地への伝搬要因となり(徴兵制度により兵役除隊後に
郷里に紹介した)日本伝来が明治初頭からすれば50年以上も必要と
したのである。野菜にしても冬場の白菜が広まったのは日露戦争以後
であるから、如何に明治以前の日本各地の食生活が夏・秋に収穫され
る作物に依存していたのかが判明する。時代劇では江戸の描写が殆ど
なのでこの点には注意を払わないし、まして地方行脚では食事の様子
など描写すらしない。あくまでも大名などの上層階級の食事に各地の
特産物が反映されるぐらいである。勿論、北前船や紀州からの黒潮を
利用した流通にしても、幕藩体制下での大型船建造の禁止と道路網整
備の抑制により江戸後期までは米以外の流通は教科書に記述されてい
るよりは芳しくなかったである。

 註:江戸期に於いては車両という流通のための交通概念が
   存在しなかったことを忘れてはならない。大名行列の
   屏風絵 や錦絵を思い出して貰いたい。
   そこには平城・平安期の貴族に利用された牛車の類で
   ある車両がないことを!!大名ですら荷物の運搬には人
   足と馬に乗せて運ばせたのである。

 中南米各国はスペイン勢による侵略以前のインカ帝国やマヤ文明に
て道路網整備が充実されたいた事は周知の事実であり、これが侵攻と
略奪、殺戮と破壊を容易に行わせたのも事実である。
 残念ながら車両の概念は中南米の文明においては稀薄であり(確認が
されていないだけあり、存在しなかったと判断するのは早計である)
流通の形態は葦で組んだ小型船で河川を利用したりラマの背に乗せて
運んだのであろう。

 植民地化後、街路に石畳が敷かれ馬車による交通機関の充足を促し
たことは各国首都旧市街や歴史的建造物(教会が殆どだが)の至る所に
散見される。ヨーロッパ社会における馬車交通の普及時期と重ね合わ
せてみるとそれほど遅れて伝搬したものでもないようである。

 では、鉱物資源の搾取もとい貿易で利用されたものは何であろうか?
 トラックに相当する車両が自動車黎明期に存在しなかったのは事実
だが(かといって実用化が遅れたのではなく、大量輸送の根幹は鉄道
貨車であり、荷馬車で十分事足りたからであろう)荷馬車そのものは
少ない流通形態の中で細々であるが大いに活用されていたに相違ない。
むしろ荷馬車(表現としてはおかしいが、馬が大八車のような車両を
牽いていたのではないか)の歴史が古いのかもしれない。

 いつも昼食に利用しているオープンテラス式のレストランテでペス
カトーレと豆煮を食べながらキートンは和食の懐かしさから日本食に
ついて考えていた。そこに入り口の前の道路を馬に牽かれた台車が通
ったのだ。
「サンタマルタは暑くて海際だから味付けが濃いな」
「でもコロンビア料理ってそんなには食べていない」
「スペイン料理が基本か、気候も近いし」
 食後の珈琲を飲み干しながら、夕食は何しようかともう考えている
キートンだった。

 然し、キートンはスペイン各地で微妙に料理が変化している事を忘れていた。

 このことを認識するのはセビリア万博以後になる。

to be continued !!


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