【左】庄中集会所南側の瑞鳳橋碑 【右】碑文流浪の石碑?
県道松本名古屋線が矢田川を渡る瑞鳳橋。橋の北詰東側には,真新しい庄中集会所があります。その集会所の南側のフェンスの中に,たくさんの文字を刻んだ平たい石碑が矢田川を望むようにして立っています(下の地図の●印)。これが「瑞鳳橋碑」です。平成12年春,ようやく安住の地にもどってきたのです。この碑,最近までは印場橋の北詰にありました(下の地図の●印)。「瑞鳳橋碑」なのに,なぜ印場橋にあったのでしょうか。元々はもちろん瑞鳳橋のたもとにありました。現在と同じ庄中集会所の敷地内に,松の木の根元の立派な石組みの上で,西側の県道を向いて立っている姿は,なかなか風情のあるものでした。しかし平成7年から8年にかけて瑞鳳橋の架け替え工事が行われた際,土台の石ともども印場橋北東の空き地に移されたのでした。
今回,本来の場所に戻された瑞鳳橋碑ですが,スペースの都合なのでしょう,以前の石組みはなくなってしまいました。自然石ひとつを土台とし,排水溝の上にはみ出して立つ姿はちょっぴり窮屈そうですが,あるべき場所に戻れたのですから,まずはよしとしましょうか。(2000/05/04)
印場橋北詰にあったころの瑞鳳橋碑瑞鳳橋碑の由来
矢田川の南,今の瑞鳳小学校の校区は,以前は「庄中向」と呼ばれていました。つまり庄中の本郷から見ると,川向こうの新たな開墾地だったのです。しかし,矢田川には橋が架かっていなっかたため,地域の人々は大変な苦労をして川を渡らなければなりませんでした。また,守山に駐屯していた陸軍第三師団が本地の演習場へ行くときには,大砲を積んだ車を渡さねばならず,これも大変でした。そこで大正5(1916)年,東春日井郡会議の決議に基づき,地元の人々と陸軍の工兵隊の手によって橋が架けられました。この架橋工事を記念して,翌大正6(1917)年に作られたのが,この瑞鳳橋碑なのです。瑞鳳橋碑の碑文の全文
(原文は縦書き 一部,旧字を新字に改めてあります)
瑞鳳橋碑 第三師團長陸軍中將正四位勲二等功三級大庭二郎篆額
東春日井郡旭村印塲之川急流而無橋陸軍人馬日往來於本地原廠舎者渉其水也砲車没轂時有洪水輒不得渉其困苦不可名状也加之道路狭隘屈曲如鋸印塲里民與第三師團工兵戮力鑿坂削險改修其道路大正五年一月予於郡參事會唱編入架橋補助金於議案之事幸得贊襄二月二十二日開郡會也討論研覈至二十八日夜終以滿塲一致可決之舍私徇公和氣藹藹誠郡會之美擧也橋廣拾尺長四拾九間棧拾間合五十九間所要之費額其壹千貳百九拾八圓五拾五錢以郡補助金充之他皆係印塲里民負擔欲輕此負擔乞官得木材特賣又請大庭第三師團長毎日派工兵五拾名而就工事印塲亦日日出六拾名以義務而運木材或用機械而建橋脚軍民各定部署勵精竭力以十有餘日而架橋工事得完成矣軍民雀躍欣慶因取白鳳齋田之故事名曰瑞鳳橋欲建碑以示後世來乞文於予予終始關此事誼不得辭乃録其梗概系以銘曰
軍民戮力 正氣山如 改築道路 以直換彎
漲流蕩蕩 架橋除艱 厥功甚大 赤心溢顏大正六年一月 東春日井郡會議員郡參事會員朝見秀高撰竝書