悠紀斎田碑 (印場元町北島 渋川神社境内) MENU

   
【左】天武天皇悠紀斎田跡の碑(正月,山茶花が咲いていました)【右】渋川神社の由来碑文

渋川神社の境内,旧瀬戸街道に面して高さ3mあまり,四角柱の石の記念碑がたっています。壬申の乱の勝利者である天武天皇の大嘗祭が676年に行われた際,悠紀殿(ゆきでん)に供える米を作るための悠紀斎田(ゆきさいでん)が,この地方の旧名である「山田郡」(やまだのこうり)に設けられたとの記録に基づいて,大正5(1916)年に愛知県の手によってたてられたものです。

渋川神社については,この悠紀斎田碑の隣に詳しい由来を記した黒い石碑があります(上右の写真)。それによると,渋川神社は景行天皇(第12代・「日本書紀」によれば在位60年間)の時代に創建されたということです。延喜式神明帳にも式内社として名を連ねていますから,由緒ある神社ということができます。もとは現在地より南西へ数百mの地点にあったといいますから,矢田川の近くになるのでしょう。

天武天皇の悠紀斎田が設けられた折には,祭事が行われた後に「直会」(なおらい)がもたれました。その直会の場所には,後になって神社が作られました。これが西中学校の西側にある「直会神社」の起源であるとされています。

  【大嘗祭】(だいじょうさい)
天皇が即位して最初の新嘗祭のことです。悠紀殿と主基殿(すきでん)を建て,それぞれに悠紀斎田(都より東に定めます)と主基斎田(都より西に定めます)でとれた米を供えて祭事を行います。
  【新嘗祭】(にいなめさい)
収穫を感謝して天皇が新米を天地の神に供え,神とともに親しくこれを食する宮中の祭事のことです。
  【直  会】(なおらい)
神道の祭事の後に,参加者一同が供物を下げて行う酒宴のことです。神と同じ物を飲食することで,神との繋がりを深める意味があります。民俗学的には,酒に酔って恍惚状態になることで、神との一体感を感じたとも言われます。

   渋川神社社殿焼失!
平成14年(2002年)5月4日午後4時30分頃,渋川神社の社殿から出火し,本殿と拝殿を焼失してしまいました。拝殿は柱を残したものの,本殿は炭化した柱や梁の一部を残すだけで,殆ど焼け落ちてしまいました。もともと火の気のないところですから不審火と思われ,数名の少年が関係しているのでは…という話が地元でささやかれています。

寛文3年(1663年)の再興にともなって再建された本殿は,江戸初期の建物として貴重であり,市の文化財指定の指定を受けるために調査中であったとのこと。かえすがえす残念でなりません。

※右の写真は5月6日撮影 右側が拝殿,左が本殿。

  現在は仮本殿
平成16年の正月,初詣がてら渋川神社の様子を見に行きました。社殿の後は更地になり,境内の西より,社務所に近い方に仮本殿が設けられていました。した右の写真のように鳥居から真新しい鈴がさがり,ちょうちんも並んでお正月,初詣の雰囲気です。今後,平成17年から再建を始めて,社殿が平成20年に完成,平成22年に境内の整備を含む全ての工事が完了するとのことです。仮本殿と並んで完成予想図画(パースですね)や平面図が掲示してありました。それによると,新しい社殿の場所は旧社殿とは異なり,境内のほぼ中央付近なりそうです。(2004/01/02)

  
   【左】更地になった旧社殿跡          【右】仮本殿,初詣用に準備万端です