本地ヶ原開拓記念碑 (南新町中畑) MENU

      
      【左】本地ヶ原開拓記念碑         【右】本地ヶ原神社「天狗の踵岩」○内が踵のあと

    陸軍演習場
第2次世界大戦当時まで,本地ヶ原の台地には陸軍の演習場がありました。大正時代から守山(第三師団)や鳴海の部隊の,砲兵や歩兵の訓練が行われました。また,昭和になってからは陸軍航空隊の練習機,いわゆる「赤とんぼ」(九五式一型練習機)が飛ぶようになりました。台地という地形で水利が悪く,水田耕作に適さない土地柄だったため,演習場として利用されていたのでしょう。現在の国道363号(瀬港線)は,第2次世界大戦末期に整備が進んでいた,迎撃機用の緊急離着陸場の滑走路が基になったとされています。

    開 拓 地
戦後の昭和20年11月には開拓地となり,中国大陸などから復員してきた人々ら150世帯が入植しました。といっても灌漑(かんがい)施設が急に整うわけはなく,麦や西瓜(すいか)などの畑作に励みました。特に西瓜は「日の丸西瓜」の名で名古屋などに出荷され,人気を博したそうです。尾張旭が生んだブランドといえるでしょう。その後は,稲作も広く行われるようになりました。

    記 念 碑
国道363号を中心とした本地ヶ原は,いまや尾張旭市内でもっともにぎやかな場所になろうとしています。耕地はほとんど姿を消し,開拓地の面影はありません。その瀬港線と並行する白山道に面して,
「本地ヶ原開拓記念碑」が立っています。本地原小学校の東にあたり,喫茶店の隣りになります。すぐ東には,本地ヶ原神社の鳥居があります。昭和40年建立のこの碑には,開拓にいそしんだ人々の苦労や願いがこめられていることでしょう。

本地ヶ原開拓記念碑 碑文(裏面 原文は縦書き)

その日 昭和二十年十一月二十日 敗戦という未曾有の衝
撃を受け 打ちのめされた悲運の中から 志を祖国再建 国
土開発に樹て 全国各地より この地 本地ヶ原に集うるもの
百五十世帯 旧軍人あり 戦災者 復員者 離職者等 多彩
な顔ぶれをもって緊急開発措置法に基づき 不退転の決意を
胸に 最初の鍬を打ち下したのである 爾来 雨に泣き
風に苦しみ 営々と力めてやまず 星霜二十年 田は稔り
畑は豊かに輝き 昔の面影は何處にも見當らない 然し乍
ら この間 伊勢湾台風を初め 自然の猛威に耐え 危機の
数々を幾度か潜り抜け 曲折はあったものゝ 問題は悉く解
決を告げた 今 過ぎし日々を顧み 個人を偲び 無量の
感懐なきを得ない ともあれ 相寄り 相援け合う 団結
のみが最後の救いであったことを肝に銘じ 新たな意思を漲
らせ 開拓者一同の浄財を集めて ここに桑原愛知県知事の
揮毫を得 この記念碑を建てる次第である
   昭和四十年十一月二十日建立
         本地ヶ原開拓農業共同組合

  本地ヶ原神社
この神社の起源は,聖武天皇の時代,神亀年間(724〜729),あるいは宝亀年間(770〜781)さかのぼるともいわれます。江戸時代前期の寛文5年(1665),尾張徳川氏によって再興されました。古事記の国産みに登場する「伊弉那美(イザナミ)大神」を祭るこの神社は,もとは白山林にあって,「白山神社」と呼ばれていました。明治44年に稲葉の一之御前神社に合祀されましたが,昭和45年に今の場所に「本地ヶ原神社」として再建されました。明治末期といえば,演習場が整えられた時期にあたりますね。

  【天狗の踵岩
この自然石は,尾張旭市唯一の横穴式石室をもつ古墳,天狗岩古墳の天井石の1部だと考えられます。もとは矢田川を望む本地台地の北斜面(長坂町)にあったものです。表面に見られる足型のへこみについて,「その昔,このあたりに住んでいた天狗が,この石を蹴って猿投山へ飛んで行ったときの踵
(かかと)の跡だ」との伝承があります。本地住宅の開発に伴って,本地ヶ原神社の本殿横に移されました。石室と墳丘は,長坂遺跡内に復元されています。また,印場大塚古墳(大塚町1丁目)の敷地内には,古墳時代の竪穴式住居などとともに,天狗岩古墳の石室を模したものが造られています。瑞鳳公民館で鍵を借りて見学することができます。

  本地ヶ原神社は建て替え中
2001年夏現在,本地ヶ原神社の社殿や石組みは撤去され,神社の杜もなくなって更地になっています。開拓記念碑や鳥居はそのままになっており,また小さな祠も旧農協の建物の軒下に置かれているので,おそらく社殿を建て替えるのだと思われます(具体的な計画はわかりません。ごめんなさい)。天狗の踵岩は,これはだけ残された手水舎
(ちょうずや)の北に横たわり,まずは健在だったので一安心です。(2001/8/20)

  

  本殿&拝殿完成は2002年秋
11月の3連休,本地ヶ原神社を訪れると,氏子の人たちが鳥居の北側に山砂を入れて,整地していらっしゃいました。また祠や賽銭箱と並んで,本殿と拝殿の立派な完成予想図も掲げられていました。作業中の方に今後の予定をお尋ねすると,「来年の秋祭りまでには完成するようにしたいね。かかと岩?う〜ん,まだ細かいことは決まっていないけれど,拝殿よりずっと手前に置くことになるんじゃないかな?」とのお答えを頂きました。伝説を生んだ天狗の踵岩(本当は古墳石室の石)はちゃんと保存してもらえるようです。(2001/11/24取材)


【左】整地をする氏子の人たち。奥の一段高いところが社殿予定地

  天狗の踵岩も安泰
「情報のメンテが悪い!」知人に叱られてしまいました。そう,一昨年(平成14年)の秋に社殿は完成していたのに,記事は上記のまま。いや,社殿が再建されたのは確認してあったのですが,天狗の踵岩がまだ未整備だったので…言い訳をしておきます(^_^; さて,平成15年8月に境内の整備を含めて工事が一応の完了をみたようです。天狗の踵岩は拝殿に上がる階段の右手という,目立つ場所に置かれました。この岩,以前は最上段の写真のように立てられていたのですが,今度は平らに置かれています。本来は古墳の石室の天井石だったようですから,これが正しい置き方,ということになるのでしょうか。(2004/01/02)