「一路熱海の病院に向かう」

午後4時頃病院に着いたと思います。疲れたので夕食を食べ7時頃寝ました。
12時頃に目が覚め当たりを見渡すと、花瓶と花が散乱し、寝た後に誰か来たようで眠っていたので、細長い花瓶に花を差して帰ったようですが、私が足で蹴ったようです。
後から聞きましたが家内の親友で近所のEさん親子でした。
入り口隣には私と同じ年齢で右側麻痺し転院して来た人、左隣には独身の軽い脳出血の人、向には過去を喪失し普通何でもないが話ししているうちに、話のつじつまが合わなくなった人、斜め向には脳出血で脳の一部を繋いで奥さんが看病していた患者が入院していました。                                                                                                                                                   ハナガツミ
 
PTは午前10時の訓練で平均棒・真っ直ぐ早く歩く・ドッチボールを取ると投げる・右足に重りを付けの歩行訓練・階段の手すりを使用しない上がり下がり・左右の足を広げて戻す・自転車マニュアルの訓練等行いました。
午後1時からはOTを訓練し45度に立っているベニ板を上下にこする運動・両足に重りを付けての歩行訓練等、メーンは左手で新聞等を升目に写す字の訓練であった。

2週間位過ぎると、今まで車椅子で運動していたが、手摺りにつかまり歩いて行けるよう成った。
最初は大変でしたが訓練だと思い徐々に慣れてき、完全に車椅子を使用しなくとも歩けようになりました。


二ケ月位過ぎピーチバルブが取れてしまい喉にはめなくとも不自由を感じませんでした。
とにかく病院の中を歩き、日曜日は一回廻ると300メートル位あるのを5周したり、1・2月の寒い時でも半袖一づで歩きました。 
日課は夕飯後、7時頃から消灯まで歩くことで、消灯時間をすぎたり、防火ドアを閉められたりしました。

「喋る機械発見」丁度家内とおふくろが来て地下でアイスクリームを食べていたら、ワープロ大きさ位で「アイスクリーム」と打つとそのままの声が出自動販売機で買っていた。
家内が聞くと「namconのトーキング」だった。幸いに東京にいる次男とnamconとの取引があり、調べて貰い早速購入、コミニュケーションを取るのに大変役に立ちました。
「namconのTALKINGAIDαU」は数字やひらがな・濁点・ピリオード・よく使う言葉等、用途が幅広く組み込まれています。 熱海病院は山紫水明で特に4・5月に成ると五月で山一面が花で賑わっている。たまに食べ物を求めてシカが降りてくる。

(熱海は温泉地) 熱海は温泉地で病院も温泉を引いていました。多分週に2回、患者が沢山いるので午後の2時〜3時の間に入浴しなければなりません。 倒れてから入浴してないので4・5回家内がついてきました。1年振りでおそるおそる入りましたが、何とも言いない気持ちでした。最も風呂が以前から好きでしたから−−。
喉の穴からお湯が入らないよう気を使い頭を洗い背中も流してくれました、風呂の部屋は暖かいのでラン花が咲き乱れ、和ましてくれました。

(自宅に帰って)

年末に休みを29日〜3日迄帰宅申請し、家内と長男夫婦が迎えに来てくれました。
1年振りの帰宅でしたが、何か別宅に来たようで食いいるように眺め、懐かしさのあまり熱いものが流れ落ちた。徐々に実感が沸いてきた。やはり家族一緒に居ることが一番良いとしみじみ感じました
PTで知りあった人、又同じ病気で話し出来ない若い女の人等、又顔見知りの人が沢山いました。 OTでは金融機関で勤務していて海外研修で倒れ、職場復帰している人も居ました。 入院中三男の交通事故では保険会社の担当者の方には大変お世話に成りました。その為退院も延び延びになり平成7年7月初旬になりました。

「温泉病院に入院」 平成8年6月下旬温泉病院に入院しました。と申しますのも家内の友達のEさんが同業者の奥さんが入院し良いところと聞きましたが、 確かに温泉が沸き出て、5月・6月かけてつつじが咲き、閑静なところにあり本院は町中にありました。 PTが主で独自の朝のラジオ体操・平均棒・自転車マニュアル・階段上がり下がり・電動ウォーカー等全てものをやり体力をつけました。 1日の歩行数を決め、朝とPTが終わった後夕食が済んだ後等歩きました。 8月に入って以前金融機関に勤務していたころ、先輩であったA氏が経理局長として迎えられました。 A氏は郡山の脳外科に勤務しておりましたが、理事長同士が友達ため迎えられたようです。いずれにしろ心強く感じた次第です。
医師とのコミニュケーションは「namconのトーキング」で取っていました。

「言語訓練先生との出会い」 平成8年10月初旬頃、東京に住んでいる長男の嫁さんが社会福祉関係の病院に勤務していました。 仕事の関係上、日本でも権威のある医師を紹介し見て貰いました。 病院が広くリハビリ室もオープンで大きく広い通路の側にあり、色々な人がリハビリ室で訓練、又通路で歩行訓練をしていました。 医師から色々と説明を聞きましたが、結局地元で訓練しても同じ事になりました。
毎月1回獨協医科大学病院から来る耳鼻咽喉科で主治医の平林先生の治療を受けていましたが、平林助教授は月に何度か星総合病院の耳鼻咽喉科でも治療してましたので、今度新しいく言語訓練のリハビリを始めるので受けて見てはと紹介があって、 12月に診察しS先生が紹介され平成9年1月から訓練に入ることに成りました。
最初は呼吸を整える訓練でしたが、1月末から空いている喉を親指で短時間押さえ咽せりながら「あ〜」と言う訓練をしました。 これが私の声「話せる」と感激で一杯でした。

早速得意げに「おはよう」「おばんです」「お帰り」等家内とおばあちゃんに話しかけました。 今では喉を親指で押さえ息つきを良くし、メモやトーギングが無くても何とか意志が通じ、歌も歌いるようになり高音も短い時間ですが出るようになりました。 先生も看護婦さんも日を追うごとに話せる私を見て驚いておりました。
これも言語訓練をしていただいた先生のお陰であると心から感謝申し上げております。
気の遠くなるような期間がかかると思いますが、今後共宜しくお願い致します。

訓練の一部を紹介します。

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