飛行訓練の思い出 昭和19年、宮崎・富高航空隊にて   2002.3.1 作成

富高航空隊時代の思い出は ここ 空中戦など

私の八月十五日 2004.8.13

このコーナーを作ったのは

先日娘が、朗読の会で「軍歌」を歌う事になったと言って、「軍歌」のCDを
買ってきました、ところがその中に「七つボタンは桜に錨」の歌が無い、
このままでは昔の事が忘れらてしまう、
HPにアップしておけば、残ってくれると思って記念に書きました

戦時中の飛行訓練
海軍の「赤とんぼ」と呼ばれていた二枚翼の練習機での飛行離着陸訓練です、 「見張りよろしい」「右旋回」「もどせヨーソロー」などという、 60年程前の訓練を思い出しながら書きました 「飛行予科練習生」、や「七つボタン」のHPを見ましたが飛行訓練は見当りません 「予科練の歌」も無くなってしまいそうだし、当時の経験者はパソコンをやっている人も 少ないし、もう10年も経ったら、皆いなくなってしまうでしょう 終戦頃には飛行機が無くなって、この「赤とんぼ」に250Kg(25番)の爆弾を ハンダで引っ付けて特攻機に使ったとか聞きました 「タケヤリ」と「大和魂」で、B29を叩き落せよりは少しはましだったでしょう


二枚翼の通称「赤とんぼ」の飛行訓練です
飛行隊長に階級氏名”飛行訓練開始”の宣言をして、飛行機に乗って、椅子の落下傘 (これが座布団になっている)に装帯(搭乗員が身体に付けている、自動車のシートベルトの ような物)を取り付けて、 伝声管(当時は後ろの教官との連絡はゴムホースを耳と口に付けて 連絡していました)を付けて、 ”エナーシャー回せ” (これはエンジンを起動するため、整備員が手動でプロペラ起動の元を回します) 回転が速くなったら ”コンタクト”で右手でレバーを引っ張って、起動、プロペラがキュキュキュと言いながら ブルーンと回ります、 スロットル(アクセル、これは手で動かします)でエンジン調整、 昔の自動車と同じような物です、 プロペラの回転を確認したら、両手を振る(車輪止めチョークを外す合図) ”見張りよろしい”、で離陸地点に行って、 ”見張りよろしい”、”離陸します”、スロットル全開、 飛行機は前輪2個と後輪で滑走します、プロペラは右回りなので、風は機体の後ろの垂直尾翼を 左から右に叩きます、 それで飛行機は機首を左に向けるので、右足を踏んで、機体を右に回すようにします、 次に後輪が地上から離れたら、 風は機体の下を回って、右側から吹き付けます、そこで機体は今度は右に回ろうとします、 そこで左足を踏んで、機体を右よりに、 ここが難しいところです、地上を離れたら、やはり機体は、右に力が加わります、 この操作が難しいので、離着陸が一番重要となっています、 昔、映画で搭乗員がいない飛行機が一人で離陸する場面がありましたが、 垂直尾翼の方向舵がパラパラと動いていました、 私も最初は、両足をパタパタやっていたと思います 空中に浮いたら「目安」と言って、エンジンベッドと水平線の位置を確認して、今が上昇か、 水平飛行か、降下か、を見ることになります、勿論計器でも分かりますが、 最初はこの「目安」が大切です ”上昇”、”見張りよろしい”、 ”(第1旋回)”右旋回、ここは上昇旋回、 ”戻せヨーソロー”(ヨーソローというのは戦後これはなんのことですか?と聞かれましたが、 海軍用語でよろしいと言う言葉だと返事した事を思い出します) ”飛行場よろしい”、”見張りよろしい”、 ”(第2旋回)”右旋回、”戻せヨーソロー”、”高度よろしい”、”水平飛行”、 ”飛行場よろしい”、(ここらが少し落ち着けるところ)”見張りよろしい”、 ”(第3旋回)”右旋回、”戻せヨーソロー”、”着陸地点よろしい”、”見張りよろしい”、 ”(第4旋回)”右旋回、”戻せヨーソロー”、 ”変更輪よろしい”(変更輪というのは手動で尾翼を上下する物です)”降下”、 ”5メーター”(これは航空母艦に着陸する時、後ろから出ている拘束勾(こうそくこう) フックで 空母の飛行甲板に張られている張り線に引っ掛けるためです、 空母の着艦のTVを見ているとよく分かります)、 地上5mでスロットを一杯しぼる、 ”5メーター”これを3点着陸と言います、 陸軍にはこれはありません、 着地、 地上員の案内で、列線(飛行機を置くところ)に帰り、飛行隊長に帰還報告、これで終了 着地に失敗すると、 ”やりなおしまーす”で再度スロットル全開、最初からもう一度やりなおしです 単独飛行では後ろの座席に砂袋を積んで、後輪に吹流しを付けます、 先日高齢者運転講習の実技の時、訓練生が単独で運転する時、 無線を付けた車でやっていました、これと同じようなことです 単独飛行の時、この”5メーター”を言わなかって、後で着陸地点で見ていた教官から 「お前5メーター、言わなかっただろう」と言われました、 実はもう5mかななどと思いながらスロットルを操作していたため、 確認が出来なかったのでした, 単独飛行は7時間で成績は良い方でしたその後、編隊飛行訓練に入ります 私が操縦に入ったのは、操縦偵察別の検定があって、 ツートトツートのモールス信号の成績不良で、 偵察は駄目で操縦になりました、従兄弟は半年違いで偵察になって、 19歳で沖縄特攻で戦死でした 60年ほど前のことを思い出しながら書きました、 飛行日誌などもあったのですが、どこかに紛失です 面白い数え歌があります 一つ 一人で乗るのを単独飛行と申します、後ろ砂袋 二つ 二人で乗るのを同乗飛行と申します、頭コブだらけ     (これは後ろの教官が、操縦桿を外して後ろから前の練習生を叩くのですが、    飛行機は飛んでいるので、風圧で上からは叩けません、    操縦桿を押すようにしますが、これが力が入って、    練習生の頭がコブだらけになるということです) 三つ 見ないで飛ぶのを、計器飛行と申します、玉が滑ります、   (玉というのは、水平儀の中に入っている玉のことで、水平飛行、右旋回、左旋回、    などで飛行機が横滑りすると、この玉が滑ります) 四つ 夜に乗るのを夜間飛行と申します、外は真っ黒け
などですが、後は忘れました

上記をご覧になった先輩から下記のMSGが入りましたので
転載させていただきました   


懐かしや「赤とんぼ」 2002.3.2

予科練時代の思い出話、大変懐かしく拝見しました。私は昭和十八年十二月学徒動員で
陸軍に配属され、終戦の年の冬、都城の郊外に設営されていた独立整備隊で沖縄作戦で
の特攻隊の整備の仕事をしながら終戦を迎えました。
初めのうちは特攻隊と同じくらいの数の援隊がついて出撃していましたが、いつも
全機帰還せず、いつのまにか特攻隊のみの出撃になりましたが、そのうち戦闘機での
編成ができなくなり、
お話しの「赤とんぼ」を使って二度ほど出撃したことを思い出しました。
後ろの座席にドラム缶を積んで、腹に250キロの爆弾を抱えると飛ぶのがやっとの
有様で、敵の攻撃を出来るだけ避けるため海上すれすれをプワプワと飛んでいった姿は
真に哀れで見ておれませんでした。
それにしても、私は当時のことをほとんど忘れてしまっていますが、貴殿はなかなか
詳しく覚えておられるのには改めて感服いたしました。

思いはいろいろ 02/03/19 0:51

2ヶ月余りのご無沙汰となりました. 久し振りに ゛HIDの部屋” を訪れてみました. 特に “思いいろいろ”と言うべきものが、2つ見られました. @ 凛々しい予科練時代の勇姿    銀行在職時代、仕事を離れ、多芸多趣味でしかも    余りお酒の嫌いでない貴方とは、何度かは酒席を共に    したことがあったと思いますが、予科練時代のことを    話題にされた記憶がありません. 敢えてそれを話題に    されなかったことに深い敬意を表しますと同時に、美しい       お母さんや姉さん妹(みどり?)さんの中で凛々しい貴方    の勇姿に感動しました.    親友の中の親友が、昭和14年6月?松山中学で初めて    甲種飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊した    ことを思い出しました。 残念ながら、彼は、同18年春?    戦死してしまったと聞いています.     また、近所の先輩(北豫中学)が、その1期前(予科練    第1期?)に同じく入隊しましたが、彼も、真珠湾攻撃の    あと同17年秋?戦死してしまったと聞きました. A 白内障手術    手術の経過写真が入っているのに驚きました.    11年前、私も右眼を手術いたしました. 先日NHK‐TV    をみてから、緑内障がこれ以上進まないうちに左眼も手術    しなければと思っていましたから、見事な手術の写真を見て    驚きました. 私は、コメントに出ていました日赤で手術し    手遅れもあって9日間入院しました.    11年の間の技術の進歩と、それを活かした近代的な医院    の出現に驚きました.  いい情報を有難うございました.          ではまた
2003/09/23

おはようございます。  玉井です。

 さて、今日はギター仲間と共に、老人ホームへ慰問演奏に参ります。演奏曲には軍
歌もあり、結構、ご老人には人気があり、皆が歌ってくれます。
 今日は、「若鷲の歌」を弾きますので、その前に、貴兄のお話をさせて頂きたいと
思いますがお許しを頂けますでしょうか?。
 実は、昨日貴兄のHPの予科練時代を拝見し、あの当時のことをしみじみ思い出し
ました。私が松山中学3年当時、学校にも応募の案内があり、幾人かは予科練に進ん
だ方もあり、ご苦労されたこととおもいます。
 高橋写真館で、ご家族と撮られた貴兄の勇姿、何と凛々しき若者の目の輝かしいこ
と!。恐れ入りました。
 こういう人生を送られている方もありますよと、お話しさせて頂きたいと思います
ので、よろしくお願いします。             以上
2003/09/24
 昨日は、三津のしらさぎ苑へ、3名で慰問演奏に参りました。
 ここは、今年になって、9回目の訪問ですが、14曲の中で、「ラバウル小唄」と
「若鷲の歌」の2曲の軍歌を弾きました。
 歌の間に、貴兄のお話をさせて頂きました。凛々しい軍服姿の話から始め、どんな
困難や病気にも負けず、人生を明るく過ごされていることをお話させて頂きましたと
ころ、うなずく方も多く、とうとうアンコールは、戦死された身内の方のことを思い
出された方からの希望で「ラバウル小唄」の再演奏となりました。
 9月29日には、南高井センターに参ります。
 その時にも、貴兄のお話をさせて頂くつもりですが、よろしくお許しを頂きます様
お願い申し上げます。ここでは「同期の桜」を弾く予定です。
 とりあえずご報告を兼ねて、御礼言上申し上げます。 



10:07 2003/10/06

富高航空隊について 投稿者:KAZU  投稿日:10月 5日(日)23時17分22秒

初めまして私は横浜のKAZUと申します。HIDさんの「富高航空隊」に所属された頃の
ページ拝見しました。実は、私の義父が、宮崎の富高で赤とんぼで練習をしていたと
いう話をしていましたので、HID様のホームページのこのページを見せましたら、
大変懐かしんでおりました。
当時、富高航空隊に所属していた人たちで 「富高会」 と称する会を毎年催して
いるようです。「もし機会があれば参加されたら良いのになあ」
と言っておりましたので、突然ではありますがメールさせていただきました。ちなみ
に今年はつい先日の9月22日に集まったそうです。もしよろしければ返信いただけれ
ば有り難いのですが。



土浦海軍航空隊時代 昭和19年 夏

13期甲種飛行予科練習生、昭和18年17才で入隊、19年の夏、休暇の時の写真がありました、
土浦海軍航空隊から東京の友人と遊んで、松山に疎開していた母達に逢いに帰ってきて、
松山市内松山城の下、大街道商店街の「高橋写真館」で撮影した記念写真です、
家族との写真はこれ一枚しかありません
親父は横浜正金銀行のスマトラの支店にいて不在、母と姉、妹で撮影しました、
懐かしい写真です

この後、土浦海軍航空隊(予科練卒業)、宮崎の冨高航空隊(飛練、赤とんぼで飛行訓練)、
岩国海軍航空隊(実施部隊ということでしたが、もうガソリンが無くて飛べませんでした、
ガソリンが無いので、ア号燃料(芋焼酎)を使用、これをドラムカンから引っ張り出して
飲んでいました、
( 終戦後はガソリン臭いグラマンと言って売られた物です)、

霞ヶ浦海軍航空隊、山形航空隊、万世分遣隊(銀山温泉)で終戦
搭乗員は見つかったら殺されるというデマで山形から、普通の兵隊さんは普通の車両、
こちらは貨物列車に詰め込まれて帰ってきました

だいぶ古いので台紙もくたびれています   2002.2.9

ソルトレイクの開会式を見ながらアップ




海軍に入隊する時の、日の丸、愉快な記念品

東京都立化学工業学校の懐かしいお仲間です  昭和18年



下は、女性ばかりのサインです



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