富高航空隊などの思い出  2002.3.5

「土浦海軍航空隊」を昭和19年9月1日卒業、宮崎の「富高航空隊」で飛練教程、赤とんぼの
飛行訓練で単独飛行を終了、編隊飛行訓練に入った頃、のことでした
富高の町の中心部に小山があって、その上に立派な家がありました、そのお家を休日の日に訪れると、
我が子のように可愛がってくれて、いつも美味しい物を食べさせていただいていました、この家から
飛行場が見渡せる見晴らしの良い場所です
春には道路から家まで梅の花が綺麗に咲いて香りがすごく良かったのを思い出します

ある日曜日、そこに遊びに行っていたとき、突然戦闘機の編隊がやってきました、見ると次々に着陸
します、80機程でした、一機は足を折って着地失敗、
これが鹿児島基地からやってきた、神雷戦闘隊、というゼロ式戦闘機の精鋭でした
米軍も注意していたと思います

この戦闘隊がきて、我々は「岩国航空隊」に転勤、富高の駅にいた時突然「空襲警報」見ると、
グラマン、シコルスキー、などと空中戦、相手は、あばれた後は空母に帰って給油、
波状攻撃で300機ほどはやってきたでしょう、こちらは給油している間にやられてしまう

上空で戦闘機が火を噴いた、やったーバンザーイ、ところがくるりと方向を変えたら日の丸、
ありゃーー途中で搭乗員が飛び出して助かったと思ったら、なんと搭乗員の身体から燃えている、
落下傘の上まで燃えて落ちてしまいました

米軍のガソリンタンクは生ゴムで巻かれていて、ガソリンが漏れることは無いのですがこちらの
戦闘機や爆撃機はガソリンタンクはブリキだけ、一式陸攻という爆撃機は一式ライターなどと
呼ばれるほど、撃たれるとすぐ火を吹くので有名でした
ゼロ戦も撃たれたらガソリンをかぶってしまうのです

シコルスキーが我々の目の前を飛行場に向かって飛んで行きます、窓を開けていて搭乗員の顔が
ちゃんと見えて、飛行眼鏡をかけているのが、笑っているように見えました
飛行場に向かって射撃、20mmの機関砲の薬夾がバラバラと雨のように降っていました
どのくらい時間が経ったか覚えていませんが、こちら80機は全滅、アメリカ機はいなくなって
しばらくしたら列車が到着、我々は岩国に向かって出発しました

岩国航空隊には戦闘機「雷電」があっただけで、まもなくB29の空襲、近くの大竹燃料タンクが
やられて全滅、高射砲を撃っていましたが、7000m程しか飛ばないからすぐに「撃ち方やめー」
B29は無傷で帰っていき、新鋭戦闘機「雷電」は近くの島に落ちて燃えていました
岩国にいた時、5人ほどが、「博多の航空隊」に出張した事を思い出します、任務については何
だったか思い出せません

しばらくしたら「霞ヶ浦海軍航空隊」に転勤、ここでは3月の東京空襲で東京が燃えているのを
眺めました、
ところがここも空襲、近くの防空壕に避難していたら、艦上攻撃機で空爆、防空壕の中で、
耳と目を手でふさいでいたら、雷が100個程落ちたかというすごい地響き、頭から砂が
たっぷり降ってきました、山を繰りぬいた防空壕だったから助かったのでしょう
空爆が終わって出てみたら、なんと山の木が全部丸裸、防空壕の入り口にデカイ穴が空いて、
こんな穴があちこちにありました、兵舎に帰ったら、屋根が機銃弾にやられただけ

この時、土浦の航空隊の兵舎は爆撃で全滅、私の娘の旦那のお父さんは、この時土浦海軍航空隊
にいて、この爆撃に遭ったのでした、海人館という大きい食堂のようなのがありましたが、これも
爆撃でペシャンコになっていました

いまでも不思議に思う事は、土浦空は兵舎が無茶苦茶にやられたのに、霞ヶ浦の兵舎には爆撃せず、
どうして我々搭乗員の卵が防空壕に入っている事が分かったのか?
これは今でも不思議な事だと思っています、どこかに、スパイでもいたのかもしれません

この空襲のおかげで、今度は「山形航空隊」に転勤、到着したらなんと、飛行場は機銃掃射で穴だらけ、
飛行機も穴だらけ、エンジンベッドもがっくりでエンジンがおじぎしたのばかり、戦闘機などの
すごい機銃掃射を受けたのでしょう、

しばらくすると、「玉野が原」というところに6人程で、飛行場建設をやるというので転勤、
ここは「銀山温泉」のあるところで、飛行場建設などいってもなにもすることは無く、
毎日温泉に入っていました

間もなく、山形航空隊に帰れということで、のこのこ歩いて帰ったら、本当に戦争が終わった
のだと知らされました

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