乗る飛行機も無くて、山形の銀山温泉でぶらぶらしていた、
私は操縦だったが同年の従兄弟が偵察で、沖縄特攻で19才で戦死していたことなど
は知らなかった
突然山形航空隊に帰れと連絡があって、乗る車など無い、とぼとぼ歩いて航空隊に帰ったら
「戦争が終わった」と聞いた
搭乗員は見つかったらアメリカに殺される、搭乗員以外は普通の客車、こちらは貨車で帰れと
貨車に詰め込まれた、なんのことはない途中で客車に乗り換えて、四国松山まで帰ってきました
松山は松山城を残して全滅、焼け跡の整理の毎日、焼け落ちた瓦などすごいゴミ、
今でも庭を掘ると当時の焼けた瓦などが出てきます
鉄くずなどは不思議なことにすぐなくなっていました、やはり儲ける人はいたらしい 1、原子爆弾について
@、原子爆弾を沖縄戦の前に落としてくれたら沖縄は助かっただろう
A、原爆投下で日本の敗戦が決まった時、ソ連は一方的に日ソ中立条約を破って参戦、
満州に攻め入って60万人もの日本人を「異国の丘」に拉致し、6万人を死なせた、
(このことはあまり新聞やTVで出てこない)
B、これからは原子爆弾は不要です
だがあの戦争を終わらせるためには絶対に必要な物でした、
話し合いでは終戦は無かった
(このことは原爆反対の意見が多くて誰も書かない)
C、終戦が遅れたら、ソ連は北海道に攻め込んで、こちらは戦う物は「竹やり」しかない、
一週間で占領、すぐ青森から戦車で東京まで攻め込まれて、
ドイツのような東日本、西日本になっていたでしょう 2、戦後
@ 鬼畜米英と言われたアメリカは悪いことをするだろうと思っていたら、
なんとチョコレートはくれるし、戦闘用の緊急食料はくれるし、
戦時中の悪評判とは大違い
松山の司令長官、キーティング少佐と知り合いになり、松山で有名な「萬翆荘」が
宿所だったので、毎晩出かけてマージャンをしていました、
出されるウイスキーが美味い帰宅してサントリーやニッカを飲んだら
飲めたのもではなかった
A 梅津寺の海水浴場の今もコンクリートの跡が残っている納涼台の上に建物があって、
4軒の料理屋が営業していた、その一軒を借りて、ひと夏ここでやったら一年は食える
ということだったが、武士の商法、飲み代食い代の集金に行ってもくれない、
愉快に働いただけ、氷が無くて長浜まで買出しに出かけたこともありました
B アメリカの将校や下士官とも良く遊んだ、その頃日本では見たことも無い缶ビールを
持ってきて、飲んだ缶を海に捨てたら、缶がプカプカみんなが驚き、愉快だった
日本は食うものも無い時、あちらは大量の物資を持っていて驚きでした
米軍のジープにも良く乗せてもらった、銀行に出勤する時わざわざ迎えに来てくれて
送ってくれたことなどもありました
C 車といえば当事松山には車はあまり見かけなかった、菅井病院の院長先生に今も
「一番町の菅井ビル」に展示してあるフォードに良く乗せてもらいました
D 靴など履物は貴重品で、風呂敷に包んで、下駄履いて、道後のダンスホールに毎日
通いました、おかげでダンスはだいぶ上手になりました
3、人の嫌がる軍隊に
志願をして行くバカもいる、と言われた軍隊に
「天皇陛下のためならばーーなんで命が惜しかろう」というより、
徴兵で行ったら装備は鉄砲から全部でも10円ほど、ところが戦闘機だと10万円はする、
棺桶代が高い方がよろしいと考えたのだったか
17歳の時、志願して入隊、品川の駅前で盛大なお見送りを受けて、出発、
なんと航空隊に到着した途端、品川まで迎に来ていた教官は今まではお客様扱い
だったのが、航空隊に到着した途端、態度がガラリと変わって、
「貴様達をこれから立派な海軍軍人に育ててやる」と毎日毎日なぐられるばかり、
折角志願して入隊しても、首を吊って死んだ人もいました
毎日、なぐる教官(乙飛の連中)(こちらは甲飛)が相手の歯で手が痛むので、
飛行手袋で殴っていたところを、将校が見て、「殴るのなら、素手で殴れ」
と注意したときは愉快でした
タバコのバットが金鵄(キンシ)になったのに、野球のバットの3倍くらいの
「軍人精神注入棒」というバットで尻を殴られて尻が真っ黒になったり
いつも殴られてばかり
軍隊というのはこういうものです
陸軍ではスリッパで顔を殴るのを禁止したとか聞きました
脱走兵などは憲兵が地獄の果てまで追いかけて逮捕でした
4、昔の海軍時代の入室のこと
毎日殴られるので、さぼってやろうと「腹が痛い」と言ったら、すぐ入院
(海軍では入室と言っていた)病院に行った、ところが寝ていたら叩き起こされて、
また殴られる、知らない奴に殴られるくらいだったら、やはり本隊に帰ったほうが
よろしいと、3日目には帰隊しました
海軍では殴るほうも手が痛いので、自分で殴らず、お互いに向き合って
「歯をくいしばれ」と言って殴り会いをさせていました
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