「TRAUMA(中編)」
「転入・・・ですか?」
ゆかりは自分の部屋で父の部下である阪蔵から沙希に関する調査報告を受けていた。
「はい。虹野沙希様は他県出身で中学二年の秋にこちらへ転入しておられます。」
それを聞いたゆかりは訝しげな表情をする。
「中途半端な時期ですねえ。まあ、あり得ないわけではありませんが。虹野さんのお父様の
都合でしょうか?」
「それが、虹野氏は元々転勤の予定はなかったようです。」
「つまり、ご本人の希望によるものだったのですね。三年前の夏から秋にかけての間に
何かがあった・・・、それが分かれば解決の糸口になると思うのですが。」
もちろんその点抜かりはなかった。
「風間が現地にて当時の情報を収集しています。もうそろそろ連絡があるはずですが。」
阪蔵の言葉に合わせたかのようにスーツのポケットから発信音が響く。取り出されたそれは
一見普通の携帯電話だが傍受防止システムなどの高度な機能を備えている。
「風間か。どうだ、分かったか?うむ、お嬢様と代わる。」
阪蔵は通信機をポケットに片付けゆかりに目配せした。
少女が一人立っていた。
こちらを見て、屈託のない笑顔を見せている。
沙希には彼女の身に何が起こるか分かっていた。
(いけない、そこにいちゃ。早く逃げて!)
そう叫んでいるつもりだったが声が出ない。
指一本動かせないまま何度目かの「あの時」を迎える。
タイヤの軋むような音が聞こえた。
あるいは沙希自身の悲鳴だったのかもしれない。
放課後ににゆかりはみのりの元を訪れた。
「柔道?虹野先輩が?」
「はい。当時は天才少女と騒がれ、将来の日本のエースと期待されていたそうですよ。」
意外な話に唖然として言葉も無いと言った感じのみのりにゆかりは説明を続けた。
「その地区には一人だけ虹野さんと互角に渡り合える方がおられまして、二人はよきライバル
として競い合っておられたのですが、三年前、その方は交通事故で重傷を負われて競技を
続けられなくなったそうです。」
「それは気の毒ですけど、虹野先輩とどう関係があるんですか?」
「まだ分かりません。ただ、この事件の後しばらくして虹野さんがこちらへ越してこられたの
ですから何か関係がありそうです。」
そしてゆかりはこう付け加えた。
「これからその方にお会いしに行きます。」
それを聞いたみのりはかみつかんばかりの勢いでゆかりに迫った。
「私も行きます。虹野先輩のために少しでも役に立ちたいんです!」
しかしゆかりはゆっくり頭を振るとみのりを諭した。
「いいえ。あなたには大事な役目があります。」
みのりがゆかりの指差す方を見るといつもと変わらぬ様子の沙希がいた。
「一見元気そうに振る舞っておられますが、みんなに心配を掛けまいと無理をしておられる
ご様子です。虹野さんについていてあげてください。」
みのりは表情を引き締めて無言でうなずいた。
「お嬢様、こちらが皆川唯さんです。」
唯の家で風間から紹介を受けたゆかりは彼女に向かって深々と頭を下げた。
「初めまして、私古式ゆかり、と申します。本日はお忙しいところお邪魔いたしまして、恐れ入ります。」
「いえ、特に用事とかありませんので気になさらないで下さい。」
一目見た限りでは三年前の事故の後遺症らしき物は見られない。しかしとりあえず本題に入るまでは
様子を見ることにした。
「お話は私の部屋ですることにしましょうか。ではこちらへ。」
「あ・・・」
歩き出した唯の足の動きがわずかながらぎこちないのに気付いたゆかりがかすかに声を上げる。
その意味に気付いた唯は何でもなさそうにゆかりに告げた。
「ああ。これ、神経の損傷が残っちゃったんです。日常生活には差し支え無いんですけどね。」
ゆかりの指摘が気になったみのりは何とか理由を付けて沙希の家に泊めてもらうことにした。
今までの所沙希に変わった様子はないが、みのりの前だから表に出していないと言う可能性は
考えられる。
「古式先輩、上手くやってくれてるかなあ。あの人鋭いんだかぼけてるんだかいまいち分かんないん
だよね。」
みのりは布団に潜り込んでゆかりの首尾についてあれこれ思いを巡らせていたが、いつの間にか
眠っていた。そしてどれほど時間が経ったか分からないが突然みのりは覚醒した。現在の時間は
不明だがまだ深夜なのは間違いない。みのりは胸騒ぎを感じて上体を起こした。こんな時間に自分を
起こすような何かがあったに違いない。そしてそれは恐らく・・・その推論を裏付けるように沙希の部屋から
苦しげな声がかすかに響いた。その瞬間みのりはカタパルトで射出されるような勢いで部屋を飛び出した。
みのりが駆けつけた時、沙希はまだ悪夢にうなされていた。
「先輩、どうしたんですか?起きて下さい!」
みのりは思わず沙希に駆け寄って肩を揺さぶる。それで目を覚ました沙希は勢い良く起き上がる。
「唯ちゃん!」
一声叫んだ後しばらく呆然としていた沙希は隣にいるみのりに気付いて顔を向けた。
「あれ、みのりちゃん?どうしたの」
「それはこっちが聞きたいですよ。すごくうなされてましたけど。」
「あ、そうだっけ?疲れてるからかな。大丈夫だからもう戻って。」
それがみのりに気兼ねしての強がりなのは明らかだった。みのりは直接答える代わりに沙希に提案を
持ちかけた。
「今夜はなんだか寝付けなくて。隣、良いですか?」
「え、うん。まあいいけど。狭いよ。」
沙希の承諾を得たみのりはさっさと隣に横たわる。
「あの・・・手、握って良いですか?」
「もう、みのりちゃんたら。はい。」
もちろんみのりの意図は少しでも沙希を落ち着かせることにあった。沙希が寝息をたてるまでみのりは
包み込むようにその手を握り続けた。