史跡巡り

屋代城跡


埴科古墳群森将軍塚古墳を見学と思い、車を走らせていたところ、城跡に気がつき、そして城巡りをする機会を得た。

かつての信越本線、現在は「しなの鉄道」と国鉄からJRとその名を変えてきた鉄道の屋代駅。 背後から駅を見守る様な一重山に築かれたのが屋代城だ。

城跡は細く、そして南北に長く築かれている。元々あった山の地形を生かした縄張りである。

北側の一重山不動尊に車を駐めて、目の前の屋代城巡りを開始。

現代的なコンクリート製の階段を使って、不動尊や御嶽神社を横目に登ることとなる。このあたりも郭の一つとして築かれたものと想像できる。それでもその姿は大きく違っているだろうが。

そして出迎えてくれるのが木造の鳥居。こちら矢代神社である。ここまで歩いた中で比較的大きな郭であることがわかる。その背後に背高くそびえる郭を登ると、「堀切」を見下ろすことができる。

その先にさらに高い郭を登り、さらにその先を眺めると、いままでとは違った景色に気がつく。 平坦な郭が出現。 どうやら土砂の採取跡とのことだ。 この地より、多くの土ごと削りとられた跡だと知った。部外者が申すのもなんだが、もったいないことである。

ここから格的に城跡を歩いているという気にさせてくれる雰囲気がここには備わっている。 山城とはこういう場所のことなのだろう。

堀切で仕切られ、土塁で結んだ郭が確認できる。そして落ち葉で足を取られながら本郭を目指すこと数十分。

堀切
本郭

ついに本郭へ到着。 屋代城にちなんだ白い案内版が出迎えてくれた。今までの郭と比較してもちょっと広めに見える。全体をとおして想像していたより規模が大きい。 その歴史的にみても屋代氏の居城であり、永禄年間における武田と上杉の争いなど重要拠点であったのだろう。

しかし天正壬午の乱では、捨てられ城ということで、その価値は落ちてしまい、人々の記憶も時間の経過とともに薄らいで行ってしまった。

屋代城や屋代氏について、ちょっと調べたいという気にさせられる城跡である。

ちなみに写真に収めていなかったのだが、本郭の斜面には石垣も確認できるので、見所として言葉だけ記しておきます。




■屋代城小史
永正~天文年間に築城。村上氏の一族である屋代氏が城主を務めた。

天分年間は村上義清に従い屋代正国は城を守り、甲斐の武田氏に対し頑強に抵抗をしていた。

しかし永禄二(1559)年、武田氏からの調略により城主の屋代義綱は、隣接する塩崎氏などと共に武田傘下となる。

これ以降屋代氏は武田家の信濃先方衆として活躍。川中島合戦ではかつての主君であった村上義清と争うこととなる。

北信濃の地を巡る武田と越後上杉氏との争いの前線基地であったが、海津城が築城されたことで屋代氏は荒戸城へ移り、屋代城はその役目を終えることとなった。



■情報
築城年:????
所在地:長野県千曲市屋代
主な遺構:郭、土塁
関連武将:屋代政国、屋代義綱
アクセス:上信越自動車道更埴IC10分、しなの鉄道屋代駅
駐車場:あり