武将列伝

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柿崎 景家

生 没:????~天正三(1575)年


猿毛城主。和泉守。永禄年間に長尾景虎(のちの上杉謙信)に仕えた。春日山城の留守居を任されるなど、主君からの信頼は厚かった。また永禄三(1560)年頃には越後国内の諸役を免除する令も、景家に対して発せられており、上杉家内での用いられ方が伺われる。国内の政治向きだけではなく、永禄三(1560)年の小田原北条攻め、永禄四(1560)年の川中島の合戦、天正元(1573)年には先手として越中へ出陣。勇猛果敢な武人でもあった。しかし天正三(1575)年頃、織田家との内通を疑われ、越中水島において謀殺された。

糟屋 武則

生 没:????~????
別 名:賀須屋真雄


天正五(1576)年に当時の羽柴秀吉に召し抱えられる。天正一一(1583)年賤ヶ岳の合戦にて功名をあげ、賤ヶ岳七本槍の一人として名を残す。また一万五千石の大名となる。その後は小牧長久手の合戦、小田原の陣に参戦。さらに朝鮮の役では晋州城攻めなどに参戦。慶長五(1600)年の関ヶ原においては、西軍に参加し、所領は没収される。しかしその二年後の同七(1602)年、五百石にて幕府に召される。

片桐 且元

生 没:弘治二(1556)年~元和元(1615)年


浅井家の家臣片桐直政の子。浅井家滅亡後、羽柴秀吉に仕える事になる。天正一一(1583)年の賤ヶ岳の合戦では七本槍の一人に数えられる程の功名を立て、恩賞として三千石を与えられる。その後も九州征伐、小田原攻めにと羽柴秀吉に従う。さらに検知奉行や方広寺の作事奉行などを歴任するほどの信頼を得て、秀吉晩年の頃には一万石もの禄高を頂戴していた。その信頼からか、且元は豊臣家嫡子の秀頼の後見を受ける事になる。また秀頼の母でもある淀君の信頼も得ていたのでしょう。慶長五(1600)年の関ヶ原合戦の戦後処理にも、その能力を発揮して徳川家康からも信任を得て、翌年に摂津茨木城主とる。その後は豊臣家から信任を得ながら、同時に徳川家も信頼される様になると、豊臣家と徳川家の橋渡し的な役割が且元に巡ってきたのである。しかし慶長一四(1609)年に発した方広寺の鐘事件をキッカケとして、徳川家と豊臣家との間に立つが、淀君からの信頼が崩れ遂に徳川側に奔る事になる。元和元(1615)年、大阪夏の陣にて豊臣家が滅亡すると、且元は大和、山城、摂津などで四万石を加増されるが、同年五月に主君でもあった秀頼達の後を追うようにしてこの世を去る。

片倉 景綱

生 没:弘治三(1557)年~元和元(1615)年


小十郎。伊達輝宗の小姓として伊達家に仕えた。天正三(1576)年より伊達政宗の側近となり、また数々の合戦に参陣。人取橋の合戦においては、主君を護り武功を挙げる。天正一四(1586)年には二本松城の城代として入城。摺上原の合戦においては、伊達軍の第二陣として芦名勢と相対し、第三陣の伊達成実と共に見方の勝利に貢献する。天正一八(1590)年には、小田原への参陣を主君の政宗に決意させた。慶長五(1600)年には山形城の最上勢救援を否定し、政宗を難渋させた。慶長七(1602)年に、白石城へ城主として入城。白石は一万六千石と謳われているが、実質は十万石に近かったと言われている。元和元年一〇月に景綱は死去するが、その際に家臣の九人が殉死したと言われている。

桂  元澄

生 没:????~永禄一二(1569)年


元澄の父である広忠は、主君であった毛利元就に謀叛を企てた事が発覚し、殺害させられた。その時、子の元澄はその罪に問われずに一命を取り留めた。その後は毛利家に対し一身に仕える。天文二三(1554)年には桜尾城を守り抜いた。厳島の合戦に際しては、敵将の陶晴賢に対して偽の内応書を送り、陶軍を誘い込む事に成功させている。

加藤 清正

生 没:永禄五(1562)年~慶長一八(1611)年


福島正則などと共に、賤ヶ岳七本槍の一人として知られている。秀吉の九州征伐に加わり、肥後半国の二五万石領主となる。また猛将のイメージを植え付けたのが、朝鮮出兵のおりの虎退治であろうか。清正が槍一つで虎に立ち向かい、見事これを仕留めたという話しである。その朝鮮の役では功を上げるが、石田三成より讒言され、豊臣秀吉の怒気をかい日本へ送還され伏見にて謹慎。その折りに伏見大地震があり、真っ先秀吉の元へ駆けつけるなどのエピソードも残している。関ヶ原の合戦では九州にて徳川家康側に属し、肥後一国五二万石の太守となる。しかし関ヶ原合戦後は、徳川家康の手より豊臣家が潰されるのを防ぐ様に八方手を尽くしていたと思われる。また豊臣秀吉の子である豊臣秀頼と、徳川家康との対面の際は、秀頼から離れるこなく懐に短刀を忍ばせつつ護衛していた。また築城の名手でもあり、熊本城はまさにその産物であろう。そんな清正も慶長一六年熊本にて息をひき取り、その後豊臣家は滅亡した。

加藤 嘉明

生 没:永禄六(1563)年~寛永八(1631)年


近江に生まれ年少の頃から、羽柴秀吉に仕える様になる。天正一一(1583)年に起きた柴田勝家軍との賤ヶ岳の合戦では手柄を立てる。後に賤ヶ岳七本槍の一人として後世に名を残すことになる。その後も豊臣秀吉の軍事行動には水軍として参戦する。四国征伐、九州征伐、そして小田原征伐。さらには文禄の役にては船奉行をも勤める。文禄四(1595)年には伊予松前にて六万石を領する。秀吉死後は徳川家康に近づき、関ヶ原の合戦にては東軍として参加し、戦後は二〇万石を与えられる。また元和元(1615)年の大阪の陣にも参戦し、その一二年後の寛永四(1627)年には会津若松にて四〇万石を領した。

金森 長近

生 没:大永四(1524)年~慶長一三(1608)年
別 名:五郎八可近


幼少の頃に美濃土岐氏の支流であったが,土岐氏の没落とともに近江金森へ移住。○年に尾張の織田信秀に奉公し,そして信長に仕える様になった。今川のと合戦で功を挙げて,信長より「長」の字を与えられ可近から長近へ改名。美濃斉藤氏との合戦でも戦功を挙げ,赤母衣衆の一人となる。越前一向一揆攻めの論功として,大野群に所領を与えられ,前田利家,佐々成政らと越前三人衆に数えられた。本能寺の変後は一時,柴田勝家方に与するが,賤ヶ岳の戦いにて羽柴秀吉に降伏。剃髪して金森法印と呼ばれる。飛騨姉小路攻めで功績を挙げる。そして飛騨を与えられた。慶長五年の関ヶ原の合戦では徳川方の東軍に付き,徳川時代になると高山藩の初代藩主となる。長近は武将としてだけでなく,蹴鞠や茶の湯の能力にも秀でていた。

上泉 信綱

生 没:永正四(1508)年~天正五(1577)年


上野上泉城主。上野国の有力者であった箕輪城の長野しに仕える。永禄六年、武田信玄自ら兵を率い箕輪城へ攻め入って来たとき、信綱は長野家当主である業盛を盛り立て徹底抗戦にでた。信綱自身も城門を開き敵陣への突撃を繰り返した。そして主君の最後を知ると自らも玉砕覚悟で敵陣へ切り込もうとしたが、武田方の穴山信君からの使者の言葉を受け入れそのまま自身の居城である大胡城へ退いた。箕輪城落城し、長野氏が滅亡した後は、武田家より再三にわたり仕官を勧められるがそれを固持し続けた。信綱はその後,諸国を放浪していた。兵法に秀でていた信綱はやがて,念流、さらに陰流などを極めたといわれている。永禄八(1565)年に柳生宗厳に新陰流を伝授し,永禄一二(1569)年足利将軍らに「兵法軍配書」を伝授している。

吉川 元春

生 没:享禄三(1530)年~天正一四(1586)年


毛利元就の次男。一八歳の時に安芸の国人、吉川家へ養子へ入り、吉川姓を名乗る。幼名は小輔次郎。父の毛利元就の死後は、弟で小早川家へ養子へいった小早川隆景と共に、兄の子であり甥にあたる毛利家総帥の毛利輝元を、もり立てることになる。吉川と小早川の「川」の字を取り毛利の両川と言われた様だ。活躍の舞台は主に山陰方面であった。また弟の小早川隆景とは反対に武の人であったようだ。毛利家の版図が拡大し、織田家との争いでは、徹底抗戦を主張。備中高松城にて、清水宗治が孤立した際も、敵司令官である、羽柴秀吉と決戦する事を主張。しかし小早川隆景をはじめとした、毛利家の臣に反対される。この時の敵将が天下人となり、その前にひれ伏し、豊臣秀吉の号令の元、九州征伐へ向かう事になる。その出陣中の小倉城にて、その生涯を閉じた。
また尼子征伐の最中に、元春が写本したといわれる「太平記」は有名な逸話である

木村 吉清

生 没:????~慶長三(1598)年


明智光秀の家臣。丹波亀山城の城代り、山崎の合戦(天正一〇年)の際,羽柴方の堀秀政の降伏勧告により城を開城。以後は羽柴家に仕える。天正一二(1584)年の小牧・長久手の合戦に従軍。天正一七(1589)年に美濃で検知奉行に抜擢。天正一八(1590)年に北条征伐に従軍し、武蔵岩槻城攻めに加わる。北条氏の降伏後は奥州へ入り、武功をいくつか立てる。そして旧大崎、葛西領三〇万石の大名に抜擢され,登米城に入る領内の整備に勤しむ。しかし領民の不満を解くこと叶わず,領内において大規模な一揆が勃発してしまう。吉清は居城を追われ佐沼城に籠もり、蒲生氏郷や伊達政宗の援軍を要請し窮地を脱した。この騒動は主君豊臣秀吉の逆鱗に触れ,所領は没収されてしまう。その後、蒲生氏郷の与力となり、氏郷死後の文禄二(1593)年に蒲生氏が宇都宮へ転封となると、吉清は豊後一万四千国に封ぜられ、大名に返り咲くことができた。

肝付 兼続

生 没:永正八(1511)年~永禄九(1566)年


大隅の豪族肝付家一六代当主。妻は島津忠良の娘。妹は島津貴久室。天文年間は薩摩の島津家とは有効関係を築き、共に従軍し合戦にも参陣した。しかし永禄四(1561)年に薩摩島津氏と対立。大隅の廻城を奪取すると、島津貴久は逆に城を囲んだ。しかし兼続は島津の陣へ討って出て、島津忠将を討ち取るなどの活躍をするが、敗退を余儀なくされた。これ以後は伊東氏と連合して島津氏と、およそ五年にわたり争う。しかし永禄九(1566)年に、島津氏の謀略により本拠地の高山城が陥落。城外にでていた兼続は帰る城が無く、志布志でもって自刃した。

九戸 実親

生 没:xxxxxx?????~天正一九(1591)年


政実の弟。南部晴政の娘を娶り、南部実親と名乗る。晴政、そしてその子である晴継の死後、南部家の後継者の候補に推されるが、実親でなく南部信直に決した。天正一九(1591)年に兄の政実が挙兵するとそれに同調する。政実が降伏したあとも頑強に最後まで抵抗を続けた一人であった。

九戸 政実

生 没:?????~天正一九(1591)年


左近将監。南部氏の一族。南部晴継の死後の家督相続の際に、政実は弟である実親を推していた。しかし、南部家は北信愛らが推した南部信直が継いだのである。政実は南部家と対立することになった。天正一八(1590)年には豊臣秀吉の奥州仕置きが行われ、数多くの豪族が城を失った。そうした不満が各地に一揆をもたらし、政実もその機運に乗る様にして、天正一九(1591)年に挙兵したのである。挙兵に際しては近隣の七戸氏、櫛引氏などを誘い、九戸城へ籠もり南部氏と争いはじめた。南部家は豊臣秀吉へ援軍を依頼し、蒲生氏郷率いるおよそ一〇万の兵が九戸城を包囲したのである。籠城軍がおよそ五〇〇〇に対し、包囲軍はおよそ一〇万の大軍であった。頑強に抵抗をしたが,包囲されてから4日後に開城する。そして政実は斬首となった。

黒田 孝高

生 没:天文一五(1546)年~慶長九(1604)年
別 名:官兵衛、如水、シメオン。


官兵衛の祖父の代に播磨に住みつき、小寺家に仕えていた。官兵衛は播磨で生まれ、一時期は主君の小寺氏の猶子となり、小寺姓を名乗っていた。また荒木村重を介して織田信長との外交交渉を纏め、群雄が割拠している播磨国内ではいち早く織田家に付いた。天正五(1577)年の英賀門徒との合戦での功でもって、織田信長からの感状が現存しているという。織田家の羽柴秀吉に仕える様になった後、居城の姫路城を羽柴秀吉に献上している。荒木村重の反乱の際は、説得に有岡城へ乗り込むが、城内の地下牢へ幽閉されてしまう。この後遺症によって、片足を修正不自由にしてしまった。羽柴秀吉の軍師として常に戦場にあった。天正一〇(1582)年には備中高松城攻めを水攻めにすることを提案し、実現させている。また本能寺にて織田信長が横死する情報を察知すると、毛利家と和睦を計り、軍を急ぎ京へ返して明智光秀を討つことを進言。豊臣秀吉による天下統一が成った後、豊前中津に一二万石を与えられる。しかし豊臣秀吉は官兵衛に対してかなり警戒していた様だ。事実、豊臣家に変わって天下を奪われるとすれば徳川家か黒田家といったとか。また関ヶ原の合戦においては、息子の長政が徳川家康が率いる軍に加わり、自らは九州平定に奔走した。

高坂 昌信

生 没:大永七(1527)年~天正六(1578)年


香坂が正しいのか、高坂で良いのかどちらにせよ、元々は百姓の出であり春日姓を名乗っていた。武田信玄に見いだされ、側近く仕えたのが一六歳頃であった。その才能を認められてか、二五歳の若さで侍大将に抜擢された。さらに甲斐の名門であった高坂(香坂)家を継ぎ、名を源助から高坂昌信へと改名した。天文末期には信州小諸城代となり、さらに永禄元(1557)年には信濃の善光寺平(松代)の地に武田信玄は城を築き、その城代として昌信が任命された。その二年後の永禄四(1561)年の第4次川中島の合戦では、妻女山への迂回部隊の大将格を担う程の実力者へとなっていった。武田信玄が亡くなったと知らされた際は、殉死を願いでたが周りの者の説得により押しとどめたとか。また武田信玄の後を継いだ武田勝頼が、長篠の設楽が原にて織田信長に惨敗すると、兵を率いて武田勝頼を出迎えたらしい。昌信自身は信長と一合戦の腹づもりの出陣だったようだが、味方の惨敗に引き下がった。昌信は信濃松代の地でその年の五月七日に没した。

小早川隆景

生 没:x天文二(1533)年~慶長二(1597)年


毛利元就の知略を最も受け継いだ、元就三男の隆景。幼名は徳寿丸。安芸の国人沼田・竹原小早川家を継ぎ、小早川姓を名乗る。次兄の元春が山陰方面を攻略するのとは逆に、隆景は小早川の水軍を率い、瀬戸内海や山陽方面にて活躍する。厳島の合戦や、九州での合戦では、かならず小早川水軍の姿がみられた。また毛利家の外交にも、その手椀を発揮している。その実力は次兄である吉川元春をも凌ぐほどであり、毛利元就死後の毛利家は隆景なくして、ありえなかったであろう。秀吉と和睦後は、四国征伐に九州征伐にそれぞれ出陣し、その褒美として九州の筑前、筑後、肥後の一部を貰い受ける。また朝鮮にても活躍し、豊臣政権の五大老の一人となる。しかし豊臣秀吉の外甥である秀秋を養子として迎えると、そのまま旧臣を引き連れて安芸へ隠居し、秀秋に家督を継がせる。隆景は小早川家発祥地にて、その生涯を閉じた。

小西 行長

生 没:????年~慶長五(1600)年


元は堺の豪商であった小西隆左の二男として生を受ける。また隆佐がキリシタンで有った影響で、行長もキリシタンの洗礼を受けていた。生年は不明である。はじめ備前の宇喜多秀家に仕える。行長は商人時代に貿易などで船の扱い事が多く、実際に宇喜多家にても、水軍を指揮していたようだ。その能力をかわれてか、羽柴秀吉の中国征伐中に目をかけられ、いつからか秀吉配下の武将として活躍する事になる。天文一六年には肥後の国一四万石の大名に抜擢される。行長の活躍としては、朝鮮の役でめざましかった。加藤清正等と戦陣として、朝鮮半島へ乗り込み一気に平壌まで侵攻した。しかし戦況が不利になるにつれて、清正等の武断派の者との間に、意見に食い違いを見せてきた。それは石田三成と同様であり、その結果がかたちとして現れたのが関ヶ原の合戦である。当然行長は三成方である西軍に参陣する。が小早川秀秋の裏切り行為にて大谷隊に襲いかかり、それを目撃した行長はそうそうに素早く負けを悟ったのか退却してしまった。戦後伊吹山山中にて逃亡している行長はとらえられ、京の六条河原にて斬首された。行長はキリシタンで有ったことから、自害(切腹)する事を拒んだと言われる。ちなみにアウグスティヌスが行長の洗礼名である。

近衛 前久

生 没:天文五(1536)年~慶長一七(1612)年


関白近衛種家の子。古今伝授を父から受け継ぐ。一九歳の時に関白左大臣に任官され、藤原氏の氏長者となる。永禄三(1560)年に越後の長尾景虎が上洛してくると、彼に接近する。そして長尾景虎が領国へ帰郷すると、前久もそれに伴い下向して、再び京の地へ戻ったのが二年後である。永禄一二(1569)年には、上洛してきた織田信長との対立からか、関白職を剥奪され、摂津、丹波など各地を流浪する。天正一〇(1582)年早々に太政大臣に就任するが、それも五月に辞任。その翌月に本能寺の変が勃発する。その直後に出家して嵯峨野へ隠棲する。しかし豊臣秀吉との関係悪化から、京にはおられず、徳川家康を頼り浜松へ移りすんだ。

蒲生 氏郷

生 没:弘治二1556年~文禄四1595年


蒲生賢秀の子。妻は織田信長の娘。永禄一一(1568)年、岐阜の織田信長の元へ人質に出される。織田信長の元で天正元(1573)年の小谷城攻め、同三(1575)年の長篠の合戦、同九(1581)年伊賀攻めなどの合戦に活躍。本能寺の変に際しては、安土城のいた織田信長の妻子を、自分の居城であった近江日野城へ、退避させている。その後は豊臣秀吉の旗下に組み込まれ、小牧長久手の功によって、南伊勢の松ヶ島において一二万石を領する。同一三(1585)年には越中攻め、同一五(1587)年の九州征伐と出陣。同一六(1588)年には従四位下左近衛権少将に任じられた。同一八(1590)年の小田原攻めの後に会津黒川城九〇万石を領する。また同一三(1585)年には洗礼を受けている。