生 没:享禄二(1529)年~天正六年(1578)年
別 名:赤井悪右衛門
丹波国奥三郡の領主。丹波黒井城主。
少年の頃から怪力の持ち主であったと言われている。
やんごとなき理由により叔父を斬ったことから、直正を悪右衛門と呼ぶ様になった。
赤井家は直政の甥(兄の子)が継ぎ、直正はしばらく後見役として采配を振るっていた。天正六(1578)年、明智光秀が率いる織田軍が丹波へ侵攻してくると、黒井城に立て籠もり激戦を繰り広げた。
一時は明智光秀の勢力を退けた。
しかし隣国の播磨から明智光秀の援軍として侵攻してきた羽柴軍との戦い討死。
生 没:????~天正一〇(1582)年
別 名:三宅弥平治
荒木村重および明智光秀の娘婿。
義父である荒木村重が織田信長に対して反旗を翻すと妻とは離縁し同調を免れる。
その後に明智光秀の娘を娶り明智に改姓。以後は舅である光秀に従い、丹波攻略戦に参陣。
天正九(1581)年には丹波福知山城主となる。
天正一〇(1582)年、本能寺の変には舅の光秀に従う。しかし光秀が羽柴秀吉の軍勢に山崎の戦で敗走したとの一報を受けとると、丹波坂本城に籠もり羽柴軍を迎え撃つ。
城を囲まれると、名物茶道具などを攻め手に引き渡す。そして自ら城に火を放ち、妻子を刺し殺し,そして自刃して果てた。
なお彼が天海であるという説、巷にはあるがその真相は定かではない。
生 没:亨録元(1528)年(?)~天正一〇(1582)年
別 名:明智十兵衛、惟任光秀
天正十(1582)年、京の本能寺に居た織田信長を襲撃した武将として、知名度が高い。また三日天下と揶揄されることもある。
しかし明智光秀という人物を観た時、どこで生まれ、生活し、学識を得たのかなど、特に織田信長に仕えるまでの半生ついては謎が多い。
現在に伝わる文献等も含めて、その知名度に比べて謎の多い人物である。
やはり謀反人という世間の目があり、大方の資料は人為的に削除されたのか?今となっては推測するしかないが、どこかに眠っている可能性もゼロでは無い。
一般的に伝わっているのは、美濃明智城主の子として生まれ、守護の斎藤道三氏に仕えていたとか。
また、道三が子の義龍に討たれると、明智城を捨て諸国を放浪し、その際に多くの人々に出会い、知識を得たとも言われている。
人との出会いといえば、細川藤孝と関係を深めたことがその運命を一変させたともいえる。
光秀自身が、越前朝倉義景に身を寄せていた時、藤孝が足利義秋(義昭)と共に訪れ再会してから歴史の表舞台へと踊りでるきっかけとなった。
この藤孝と共に、義昭の上洛に尽力することとなるのだが、朝倉義景を動かすことが出来ず断念せざるを得なくなった。
そこで周辺各国を見渡し、隣国の美濃を制圧しつつあった織田信長の元を使者を訪ね、義昭を伴い上洛をする様に要請。
これが織田信長との初対面でもあり、歴史という荒波を渡る事となるが、自らがその嵐を巻き起こすことになるとは想像もできなかっただろう。
織田信長は光秀の教養や高さ、軍才の豊さ、古式礼法に通じた才能を評価し、織田家の末席に加わる。
織田家では才能を開花させ、特に朝廷や足利幕府との外交交渉に手腕を発揮する。これにより京に近い近江坂本を与えられ、城の主となった。
名家の性である「惟任」を与えられ日向守に任官するまでに出世する。
天正一〇(1582)年武田家を滅亡させた後、織田家と親密な関係を維持していた徳川家康を安土城に招いた信長は、光秀を接待役を任命。
しかし任務遂行中であるにも関わらず、信長の命により接待役の任を解かれた光秀。中国地方を治める毛利氏と対峙していた羽柴秀吉の援軍として加勢に加勢に向かわせるためであった。
この後、光秀は兵を中国地方へと向ける事は無かった。亀山城より京へ進軍し、織田信長が上洛時に常宿としていた本能寺の急襲。主君を炎の中に葬った。
光秀は何を目的として信長を襲い、その子息である信忠を討ったのか。
次のビジョンを見いだすが出来ず、織田家家中でも賛同を得られることなく、孤立無援に状態に陥る。
光秀とは逆に、同輩の援護を受けた、協力者を得た羽柴秀吉と山崎にて対峙する。そして破れて敗走。
その退却途中である小栗栖において、土民の手によりその生涯を終えた。
生 没:天文一二(1543)年 ~ 天正元(1573)年
久政の子。猿夜叉丸。北近江小谷城主。永禄年間初期に浅井家の家督を相続。浅井家の興りは近江の京極氏の家臣であり、やがて北近江一帯を支配下に治めていった。一時期、近江国を掌握しつつあった六角氏に圧され、長政は人質同然の生活を強いられていた。久政の政治に反対する勢力に圧されるかたちで、長政は浅井家の家督を相続したといわれている。また越前の朝倉氏の助力もあり、六角氏との絶縁も決意。浅井氏は独立して戦国大名として歩むことになった。永禄一一(1568)年には織田信長の実妹であったお市を妻に娶り、織田信長の義弟として同盟関係を結んだ。しかし元亀元(1570)年、義兄の信長が浅井家に対して無断で越前へ攻め入ったことにより、織田家と浅井家との関係が悪化。このとき当主であった長政は織田家に付くことを願ったと言われるが、父の久政をはじめ多くの家臣が朝倉氏を援助することを強く決意。長政はそれを覆す事が叶ず、信長追討の兵を挙げた。また同年、朝倉家からの援兵を加え近江姉川を挟んで行われた織田・徳川連合軍と対峙。結果は大敗に期してしまう。足利義昭の檄をうけ、本願寺や武田信玄などと連携して、織田・徳川包囲網を築くが失敗。これより浅井家は衰退の道を辿ることになる。天正元(1573)年越前の朝倉氏滅亡から数日後、小谷城は落城し、浅井長政も自害してこの世を去った。ちなみに長女の茶々は、のちの淀君。次女の初は京極高次の室。三女の江は徳川家忠の室となっている。また徳川時代になってから、従二位権中納言に追贈された。
生 没:????~天正元(1573)年
別 名:
近江小谷城主。天文一一(1542)年に浅井家の家督を継ぐ。浅井家は元来、越前の朝倉家と友好的である反面、南近江に勢力を持つ六角氏とは対立関係にあった。しかし父の亮政が急死して久政が家督を継ぐと共に、京極氏の侵攻が強まってきた。そこで久政は六角氏に和を乞いてその勢力下へ組み込まれたのである。永禄三(1560)年には家督を子の長政に譲るが、実権は久政の手中にあったと言われている。元亀元(1570)年に織田信長が浅井家に無断で越前の朝倉家を攻めた際、当時婚姻関係にあった織田家を見限り、朝倉家に付いたのは久政の発言力が強かった為である。天正元(1570)年には織田家の大軍に小谷城を包囲され自刃。
生 没:天文五(1536)年~永禄八(1565)年
菊童丸。室町幕府第一三代将軍。父は一二代将軍の義晴。十五代将軍となる義昭は実弟。父の義晴が管領の細川晴元と対立し、天文一五(1546)年に近江の坂本へ落ち延びた。義輝はそこで将軍宣旨を受ける。しかし近畿一円で勢力の大きい三好長慶などとの対立は深刻であり、近江の朽木での逃避生活は五年に及んだ。永禄元(1558)年に三好長義との間で和睦が整い、京の地へ戻る。義輝は将軍の権威復活を目指した。越後の長尾景虎が上洛してきた時には、大いに歓迎し親交を深めた。しかし将軍が力を持つことに不愉快を覚えた松永久秀や三好三人衆との間で、新たな対立が生じはじめていた。永禄八(1565)年には松永勢により、将軍の御所が襲撃される。上泉信綱や塚原朴伝などから剣術を指南されていた義輝は、刀を変えながらも奮戦する。しかし最後は襖を被され殺害された。
生 没:????~天正一〇(1582)年
別 名:勝千代、梅雪斎不白
玄蕃頭、梅雪。武田信玄の姉の息子。また妻は信玄の娘。武田家親族衆の筆頭。甲斐国内では内政官として手腕を発揮する。武田家の駿河侵攻後は、江尻城主となり、駿河の内政に手腕を発揮する。また天正七年には居城を強固にするなど軍備も怠っていなかった。天正一〇(1582)年には、甥である武田勝頼を見切り、駿河へ攻め込んできた徳川家康の降伏勧告を受け入れ、城を開城し主君の甲斐への道案内を務める。武田家滅亡後は織田信長によって所領を安堵され、徳川家康に従い、御礼の為に安土へ赴く。そして京、堺と周遊中に本能寺の変が勃発。信君は逃走中に山城宇治田原において、土民の手によって殺害された。
生 没: ???? ~ 天文一七(1548)年
甲斐の武将。武田信虎および晴信(信玄)の二代に仕えた。板垣信形や飯富虎昌等と共に武田家の中心的な存在であった。虎泰は軍略家として、武田家中でも一目おかれた存在でり、合戦での駆け引きや、軍の進退を司る采配では、誰にも引けを取らなかったと言われている。さらに虎泰みずから率いる甘利隊の勇猛さは周辺国にも噂として広がり、甘利隊と知っただけで、敵は退却して行ったという伝説まで持ち合わせている。武田家当主の信虎追放事件においては、同じ武田家宿老の板垣信形と共謀し、晴信の擁立に成功している。また信濃侵攻の際も先陣を争って数々の功を立てていた。しかし天文一七(1548)年の上田原の戦において、村上勢の誘いに乗ってしまい討死。
生 没:天文四(1535)年~天正一四(1586)年
足利義昭が上洛し将軍の座に就いたとき、その庇護者であった織田信長の軍門に下った。それまでは三好氏の家臣であった池田氏に仕えるという小名であった。その後は織田信長によって摂津国の太守として認められる。居城の有岡城を中心に城郭都市を形成するなど、着々と領国支配を強めていった。また本願寺包囲戦などで戦功をあげるなどして、信長の信頼も厚かったようだ。従兄弟でる茨木城主中川清秀や、高槻城主の高山友照との結束も堅く、摂津をはじめとして周辺各国の支配は盤石であると思われた。しかし天正六(1578)年になり突如として、村重は織田信長に反旗を翻して、有岡城に立て籠もってしまう。謀反を起こした理由には、家臣が本願寺に量米を流していた等、諸説あるが実際の所は不明である。またこの時、中川清秀は一度は村重に協調するが、土壇場になって村重を攻撃する織田軍に加わった。織田家との攻防は一年近くも続いた。その間に村重は居城を抜け出して終結。その後は城に残された村重の妻子はもちろん、城に居た人々は皆、織田信長の命によって処刑されている。村重は一時期、毛利家領内に身を潜めていたと言われる。本能寺の変後は、堺に住み付いたようで、その後豊臣秀吉に仕えて天正一四(1586)年五月四日に堺において、その生涯の幕を閉じた。ちなみにこの村重は、千利休の高兄七人の内の一人でもあった。
生 没:???? - 天正一〇(1582)年
美濃の武将。主君であった斎藤龍興に謹慎を命じられ、その腹いせにか娘婿であった若者、竹中半兵衛を煽って、一夜にして難攻不落といわれた稲葉山城を、乗っ取らせたという逸話の持ち主である。主君を諫めたつもりであったのだろうが、尾張の織田信長の調略により、氏家元直、稲葉良通らと共に織田家に仕えた。美濃三人衆として織田家でも活躍する。しかし天正八(1580)年に武田家に内通しているとの嫌疑を掛けられ、織田家を追放されてしまう。本能寺で信長が横死すると、挙兵して再起を計るが、美濃三人衆の一人、稲葉良通に討たれてしまう
生 没:永禄四(1561)年~慶長七(1602)年
別 名:井伊万千代
徳川四天王の一人。幼少の頃に父親が殺害され為、難を逃れる為に故郷である遠江井伊谷から離れる。天正三(1575)年頃に徳川家康に仕える。その後は武田氏との戦いに出陣する。天正一〇(1582)年には織田信長の招きに応じた徳川家康の供として安土へ向かい、堺に滞在中に本能寺の変に遭遇する。徳川家康を護りながら伊賀越えを行い、無事に三河岡崎へたどり着く。その後の甲斐攻めにはおいては、積極的に旧武田家臣団を旗下に取り入れ、真っ赤な甲冑をまとった井伊の赤備えが誕生した。天正一二(1584)年の小牧長久手の合戦では、池田恒興、森長可等を討ち取る功を立て、翌天正一三(1585)年の上田攻めに出陣する。徳川家康が江戸入府後は上野箕輪城一二万石を賜り、慶長三年に居城を高崎へ移す。慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦では島津豊久を討ち取るが、この戦で鉄砲の弾でもって負傷してしい、この傷が元で慶長七(1602)年にこの世を去る。また関ヶ原の戦後処理などの功により、近江佐和山一八万石を賜り、幕末まで続く事になる彦根藩の始祖となる。
生 没:????~文禄元(1592)年
三河松平氏の家臣。天文一八年に竹千代(後の徳川家康)が人質として、駿河今川家へ降った時に随行した。桶狭間の合戦にも従軍する。徳川家康が岡崎で自立後も、主に徳川家の外交官として活躍する。その手始めとして行われたのが、永禄五(1562)年の松平氏と尾張の織田氏との清洲同盟であった。天正一〇(1582)年の本能寺の変後、豊臣秀吉との外交は専ら数正の仕事であった。賤ヶ岳の合戦での祝賀使者、小牧・長久手の際も徳川家の代表として和睦の使者として上京している。しかしそんな数正も天正一三(1585)年に突然、徳川家を出奔して豊臣秀吉の元へ身を寄せてしまう。原因は色々と言われているが、豊臣秀吉に籠絡されたとの噂が徳川家中に広まった為と言われている。この出来事は主君であった徳川家康にとっては寝耳に水であり、そのために急遽、軍制を甲州流へ改めたと言われている。数正は天正一四(1587)年には和泉にて一四万石を与えられる。その後は豊臣秀吉の臣として、九州征伐、小田原へ従軍して、天正一八(1591)年に信濃松本八万石を与えられた。
生 没:永禄三(1560)年~慶長五(1600)年
別 名:佐吉
豊臣政権の五奉行。徳川家康に関ヶ原にて決戦を挑んだ武将。佐吉。羽柴秀吉が長浜城主となった時、近江石田村の佐吉は小姓として仕えた。このとき「三杯の茶」というエピソードはよく知られている。秀吉が中国地方へ赴いた際には三成も随行している。備中高松城の水攻めなどは身を以て経験した。天正一〇(1582)年、本能寺において織田信長が横死すると、三成は秀吉に従い中国大返しを実現させ、明智光秀を討つことで出世を重ねることなる。天正一一(1583)年の柴田勝家と対峙した賤ヶ岳の合戦、天正一二(1584)年の小牧・長久手の合戦にも従軍。天正一三(1584)年、従五位下治部少輔に叙任されると、近江佐和山の地を治める。後に「三成にすぎたるものが二つある、島の左近と佐和山の城」といわる様に、この頃に己の知行値の大半を削って島左近を召し抱えたと言われている。しかし素質としては武将というよりは、政治家であったのかもしれない。槍刀を携えて戦場を駆けめぐるよりは、裁きや治世に対して行政能力を発揮した。そして居城として与えられた佐和山城は、主人秀吉の様な豪奢な作りではなく、より実戦に向けた縄張りでもった城郭に仕上げていた。佐和山の地は交通の要所でもあり、東国へ向かう玄関口であり、その重要性から秀吉による三成の信頼度が伺える。豊臣家に対してはたいそう忠義を果たしていたが、それが逆に敵を多く作る結果にもなってしまった。また他家だけではなく、豊臣家内の家臣団とも朝鮮の役において、意見の行き違いや不平等な結果を招く情報を秀吉に伝えた事で、怨嗟の声が出る様になる。やがて秀吉の死後、同僚として豊臣家を支える筈の同志から命を狙われる羽目となり、やがて関ヶ原の合戦における挙兵へと動いていくのである。慶長四(1600)年の関ヶ原合戦において、敗軍の将として斬首に処せられた。
生 没:???? ~ 天文一七(1548)年
別 名:信形
駿河守。甲斐武田家の重臣。祖は甲斐武田と同じ源氏。武田晴信(後の信玄)の守り役。武田信虎、晴信と武田家二代にわたって仕える。天文一〇(1541)年における晴信による信虎追放後、甘利虎康と共に後に版図を拡大する武田家の礎を築いた。天文一一(1542)年、信濃諏訪へ侵攻し諏訪頼重を降し、また高藤頼継を討ち、諏訪上原城を攻略。諏訪上原城は信方が城代として入城している記録が遺されている。天文一六(1547)年、信濃佐久地方にある志賀城攻めに参陣。城の包囲を敷いてる際に上野より進軍してきた関東管領上杉勢を小田井原において撃破。この後に志賀城は陥落する。天文一七(1548)年、村上義清との上田原の戦において武田家は敗北するが、信方もこの合戦において村上勢の手により討ち死に。
生 没:永正一六(1519)年~永禄三(1560)年
別 名:方菊丸。治部大輔。
上総介。三河守。従四位下。駿河、遠江、三河を領する大名。父は今川氏親。母は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。幼少時は仏門に入り栴岳承芳と称して、太源雪斎から教育を受ける。天文五(1536)年、兄氏輝が死去後の家督争いで異母兄を退けて今川家を継ぐ。同六(1537)年、甲斐との敵対関係を解消させ、当主武田信虎の息女を娶る。これにより相模北条氏綱との対立が激化し、河東郡は北条氏への侵攻を許してしまう。義元は関東管領上杉憲政と手を握ることで北条家を背後より牽制。同一〇(1547)年、北条氏綱を継いだ氏康は河東郡を今川家に返還し和睦が成った。一方で三河の国人とは友好関係にあったが、尾張織田信虎の進捗が激しく、離反する勢力も現れてきた。同一六(1547)年、松平家からの人質が駿河へ向かう道筋で奪取されたことを口火に、今川家は三河一帯を勢力下へ組み入れた。同一七(1548)年、三河へ侵攻してきた尾張織田信秀の軍勢を、太源雪斎などが率いた今川の軍勢によって退けた。同十八(1549)年、松平広忠が謀殺されたことで城主不在となった岡崎城へ義元は兵を送り込み、三河は実質的に今川家による直接的な支配地域に組み込まれることとなる。同年、三河安祥城での合戦において織田信広を捕らえ、松平竹千代と人質交換を成立させた。同二十三(1554)年、甲斐武田家、相模北条家と三国同盟を締結。永禄元(1558)年、義元は家督を息子氏真に譲り隠居。三河を中心に領国経営に勤しんでいた義元であったが、さらに西方の尾張の地への侵攻の機会を伺っていた。永禄三(1560)年、三河より尾張国境へ兵を入れる。その成果として境目の城や砦を陥落させた。しかし義元自身は田楽狭間において、織田信長率いる軍勢の奇襲に遭遇し討ち死に。
生 没:????~永禄一一(1568)年
別 名:
越後阿賀北の国人。越後平林城主。上杉家家臣であり揚北衆の一人。長尾為景、晴景、景虎の三代に仕える。天文二年、上杉為景に叛旗を挙げ、本庄氏や中条氏等の揚北衆と共に長尾家に抗った。しかし長尾家を晴景が継いだことで、長尾家に仕えた。永禄四(1561)年の川中島の合戦では、柿崎隊が苦戦している所へ助勢し、敵方の飯富兵部隊を退けさせた。それらの働きによって主君である上杉政虎より感状を貰い受ける。永禄七(1564)年には上野の佐野城攻めにて功をあげ、佐野城を任される。永禄一一(1568)年に、謀叛を起こした本庄氏を居城を攻めている陣中にて没する。
生 没:天文二十三(1554)年~天正七(1579)年
別 名:北条三郎
北条氏康の七男。幼少時に箱根早雲寺の禅師に預けられ、出西堂と称し僧として養育される。北条氏が甲斐の武田氏と駿河今川氏との間で三国同盟を締結すると、武田家に人質送られる。両家の間で交戦状態に入ると相模小田原へ戻り,大叔父である北条幻庵の養子となり、幻庵の娘と夫婦となった。元亀元(1570)年に越相同盟が成立すると,越後春日山へ人質として赴き,上杉謙信の養子となり長尾政景の娘を娶り,そして景虎という名を与えられる。天正六(1578)年に養父謙信が急死すると,上杉景勝との間で後継者争いが起き(御館の乱),景虎は春日山城を退去。城下の御館において景虎に抵抗し,北条家からの援軍を待ち望む。翌七(1579)年,景虎は形勢の不利を悟り,相模小田原への逃避を決断するが堀江宗親の反逆に合い自害。
生 没:弘治元(1555)年~元和九(1623)年
別 名:喜平次
越後魚沼群の国人、上田長尾政景の子。母は上杉謙信の実姉である仙桃院。永禄七(1564)年、父の政景が野尻湖にて溺死したことにより、叔父である上杉謙信(当時は輝虎)に養子ととして迎えられる。永禄九(1566)年、関東への出陣に随行して初陣を果たす。天正三(1575)年に上杉景勝と名乗る。天正六(1578)年に上杉謙信がこの世を去り、景勝は御館の上杉影虎と家督を争い、勝利をして上杉家の家督を継いだ。天正八(1579年までに越後一国を統一。天正九年頃から北陸方面から織田勢の脅威にさらされるが、翌年の本能寺の変によりそれも無くなった。天正一四(1584)年には上洛して、豊臣秀吉に臣下の礼をとる。文禄元(1592)年に朝鮮へ出陣。慶長三(1598)年に、越後から会津へ国替えとなり、同年に秀吉が死去すると五大老の一人に数えられた。しかし慶長四(1599)年頃には石田三成らと挙兵を準備。慶長五(1600)年に伊達、最上勢と争うが、関ヶ原合戦において石田三成率いる西軍が、徳川家康軍に敗れたという報を受け降伏。会津の地は没収され、家臣であった直江兼続の領国である米沢へ移封させられる。実に一二〇万石から三〇万石への削封であった。
生 没:享禄三(1530)年~天正六(1578)年
別 名:長尾景虎。上杉政虎。上杉輝虎。
越後守護代長尾為景の子。天文五(1536)年に林泉寺に入る。天文一二(1543)年には栃尾城主として付近を平定する。やがてこの事に疑心暗鬼となった兄晴景と対立関係となり、天文一七(1548)年に長尾家の家督を兄より譲り受けるかたちで決着する。その後も同族の長尾政景や北条高広などの反乱が発起するが、その都度、自ら出陣し鎮圧している。天文二二(1553)年頃、信濃からの豪族を援助するという名目で、川中島方面へ出陣する。これより一二年間に五回ほど、甲斐の武田信玄との間で決戦を行う事となった。天文二二(1553)年、永禄二(1559)年の二度にわたり上洛し、足利将軍に拝謁している。弘治三(1557)年には、関東から逃れてきた上杉憲正からの要請を受け関東へ出陣を決意。永禄四(1561)年には関東管領の名の下、関東各地からをおよそ一〇万ほどの兵を終結させ、北条氏康の籠もる小田原城を攻める。その攻城からの帰路、鎌倉に立ち寄り正式に関東管領職を受任する。名も上杉政虎と改めた。同年には信濃の川中島において、武田信玄と対陣。その合戦において武田信玄の本陣に単騎で切り込み、大将同士で一騎打ちを行ったという伝説が残されている。武田信玄が上洛の軍を発すると、織田信長と結び越中方面へ出陣している。天正元(1573)年以降は本願寺と和を結び、越中を平定する。天正五(1577)には能登の七尾城を攻め落とし、その勢いでもって加賀の柴田勝家率いる織田軍を手取川にて破り大勝利を収める。しかし翌天正六(1578)年、関東へ再度の出陣する直前、越後春日山城内において卒中で倒れ急死。
生 没:????~天正七(1579)年
別 名:光徹
山内上杉氏。上杉憲房の子。憲政が幼少時に父が亡くなるが,家督は養子であった上杉憲寛が継いだ。享禄四(1531)年にその上杉憲寛を追放し上杉家の家督と供に関東管領職を継ぐ。憲政が管領に就任後は戦乱の渦中に巻き込まれた。信濃は甲斐武田家の侵略に対し援軍を差し向け,また関東では小田原の北条氏が台頭しており、関東管領といえども予断を許さない状況であった。管領としての実権を回復するために憲政は、駿河の今川義元や今まで対立関係にあった扇谷上杉氏と和睦。さらに関東では北条方であった足利晴氏を引き込み、権威回復を努めはじめた。そして天文一五(1546)年,およそ八万の兵を掻き集め北条氏の拠点である川越城を包囲。しかし小田原から北条氏康が率いる八千の兵に夜襲を受けて、あえなく上野の平井城へ撤退を余儀なくされる。天文二一(1552)年には北条方の攻勢に対して、平井城を死守できずに越後の長尾景虎を頼り亡命。その際に嫡男の龍若丸を平井城へ残すのだが,のちに北条氏に捉えられ処刑された。弘治三(1557)年には長尾景虎を養子に迎え、名を上杉政虎(のちの謙信)と改めさせ、関東管領職も譲っている。その後は上野の厩橋城などを転々とする。上杉謙信が没すると、謙信の養子である景虎と景勝の間にて家督相続争い(御館の乱)が勃発。憲政は景虎方へつくが,交渉のために訪れた景勝方の陣において斬首されてしまう。
生 没:????~永禄七(1564)年
別 名:宇佐美定行?
越後上杉氏家臣。琵琶島城主。越後守護上杉氏の再興を目論むも,守護代長尾氏により果たせず。長尾景虎が長尾家を継ぎ,臣下に迎えられた。内乱続きの越後にあって,景虎と長尾政景を引き合わせるなど知将として活躍。その最期は野尻湖での船遊びでの溺死といわれているが定かではない。また越後流軍学の祖とも言われ,さらに景虎の軍師として後世に名を残しているが,その実態は多くの謎に包まれた人物である。
生 没:???? ~ 元亀二(1571)年
別 名:氏家卜全
美濃土岐頼芸に仕えていたが、斎藤道三が台頭すると主君を変じて斎藤家の家臣となる。道三の死去後も斎藤家に仕えるが、龍興の代に同朋の稲葉良通や安藤守就と共に隣国尾張の織田信長による稲葉山城攻めに内通。以後は織田信長に従う。元亀二(1571)年、伊勢長島攻めに際して織田軍の殿軍を引き受ける。この時に六角家の武将に討たれた。
生 没:xxxxx()年~xxxx()年
別 名:又助。
尾張国春日井郡生まれ。はじめ織田家柴田勝家に仕え、のちに織田信長の直臣となる。美濃斎藤氏攻めで、その弓でもって活躍。弓の腕を認められ、弓三張の一人に数えられた。その後は信長の側近となり、内政の手腕を発揮し、諸問題の裁定や織田家直轄地の代官として尽力した。天正一〇(1582)年の本能寺の変時は、近江で代官を務めていたが、信長の死を聞き、加賀松任に隠棲していたと言われている。その後、豊臣秀吉に見いだされ、検知奉行や代官を務める。文禄二(1593)年、弓大将として名護屋へ布陣した(文禄の役)。同三(1594)年、明からの使者の接待役、慶長三(1598)年、醍醐の花見において、秀吉の側室であった三の丸殿(織田信長の六女)の警護を務める。秀吉の死後は大阪城外に隠居して、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの軍記物を書き記した。信長の経歴を綴った一代記である「信長公記」はその一つである。
生 没:永禄二(1559)年~慶長五(1600)年
別 名:
豊臣秀吉に「百万の軍勢を与え、采配させてみたい」と言わしめた人物である。大谷吉継が歴史の表舞台にたったのは、おそらく「賤ヶ岳の合戦」においてであろう。この戦での第一の手柄は、福島政則や加藤清正等の、俗に言う「賤ヶ岳七本槍」と言われる彼らである。が、柴田勝家の甥である、柴田勝豊への調略による功は多大なモノであっただろう。戦においても、調略においてもなかなかの人物であったのだが、いつ頃からか、癩病(らいびょう)を発してしまい、越前敦賀五万石に収まった。石田三成とは、幼少の頃よりの仲だという。そもそも豊臣(当時は羽柴)秀吉に使えるようになったのも、石田三成の口利きで相成ったモノである。その石田三成であるが、徳川家康に対抗して兵を挙げる訳だが、実のところ吉継は徳川家康とは、昵懇の間であった。徳川家康の会津征伐時も、素直に家康に従って従軍するはずであった。しかし結局の所、昔のよしみにてか、三成に味方することとなる。勝てない戦と分かっていながら、石田三成に味方したのはその不治の病の為か?それとも三成への友情からか?関ヶ原の戦場では、馬にも乗れない体であり、視力も劣っていたため、側近に輿を担がせて采配を振るっていた。しかし小早川秀秋の攻勢を受け敗北。その首を家臣湯朝五助に首を打たせ、その首は五助の手によって埋められたという。吉継のその首は、今なお関ヶ原の地に埋まったままである。
生 没:亨録三(1530)年~天正一五(1587)年
別 名:大友 義鎮、休庵宗麟
大友家は鎌倉幕府を興した源頼朝の庶流らしく、れっきとした源氏である。鎌倉時代に豊後守護として、九州入りしている。さて宗麟であるが、家督を継ぐのに一苦労があった。実父である義鑑が、側室の子に家督を譲ろうと考える様になった。しかし「二階段崩れの乱」にて義鑑は瀕死の重傷を負うこととなり、宗麟(当時は義鎮)が家督を譲る事を了承する結果となる。その後の宗麟は、大内義隆が陶晴隆によって討たれると、北九州の平定に掛かる。宗麟は名実供のに北九州の支配者となった。しかし海外貿易を優先するためか、キリシタン保護に積極的であり、自らも洗礼を受けることとなる。宗麟が隠居してから2年後の1578年、九州南部の統治者島津氏が北上してきた。宗麟はキリシタン信徒を従え、みずから出陣するが「耳川の合戦」にて惨敗する事となり、大友家の存続に危機が訪れる。宗麟は中央での覇者である豊臣秀吉に援助をこうが、逆に秀吉の九州進出の良い口実となってしまったことは言うまでもない。その後北九州を統治していた大友家は、豊後一国に治められる。
生 没:弘治三(1557)年~天正一〇(1582)年
別 名:奇妙丸、勘九郎信重
戦国の覇者であった織田信長の後を継ぎ、その名を歴史にとどめる筈であった。しかし天正一〇(1582)年、明智光秀の本能寺襲撃により、それもはかない夢となる。変の際は、二条城で奮戦するが、圧倒的な数で勝る明智軍には勝てず、その生涯を閉じる。織田信忠は父信長、母吉乃の嫡男として誕生。美濃岩村城攻略などで功名をあげる。信長が安土に本拠を移した後は、そのあとをうけて岐阜城主となり、美濃および尾張を任されてる。その後武田攻めの大将、そして中国出陣に同行する所をみると、織田信忠が父信長に代わって采配をふるう日も近かったのかもしれない。歴史に、「~たら」「~れば」はタブーだが、もしも二条城を信忠が脱出していれば、その後の歴史がどうなっていたか、興味の有るところである。勝手な推測だが、弟の北畠信雄や神戸信孝のようなへま(?)はやらなかったのでは。そのまま天下を握っていたかは別として、それなりに活躍していたのではないかと、勝手に推測してしまう人物である。関ヶ原合戦の前哨戦と成った岐阜城攻防戦で、岐阜城に立て籠もった織田秀信は、織田信忠の嫡男であり、織田信長の嫡孫でもあった。
生 没:天文三(1534)年~天正一〇(1582)年
尾張那古屋にて織田信秀の嫡男として生まれる。父親の死後、骨肉の争いで弟信行を討ちとり尾張一国を平定する。永禄六年には駿河の大大名今川義元を、田楽狭間で討ち取り、戦国の世に躍り出る事となった。その後義父斎藤道三の仇を討ち美濃一国を手に入れる。「美濃を征するものは天下を征する」とはホントに言ったかどうかはさて置き、稲葉山城を岐阜城と改め、天下布武のもと天下平定に乗り出す事となる。永禄一一(1568)年には軍勢を率いて上洛し、足利一五代将軍として義昭を擁立する。しかし足利義昭は傀儡将軍である事に嫌気が差し、日本各国の大名に対して信長討伐を命じ、信長包囲網にを形成させる。三河の徳川氏以外は敵対勢力という状況に置かれるが、武力はもちろん外交政策を駆使して危機を打開していく。結果として信長に対抗してきた勢力は、伊勢長島の一向門徒は大量虐殺、比叡山延暦寺の僧兵は焼き討ち、浅井久政、長政父子、朝倉義景は死後の髑髏杯などという様に前代未聞の形で倒されて行く。天下平定も半ばを過ぎ、琵琶湖のほとりの安土へ豪華絢爛の城を築城し、安土城と命名される。また安土城内に自らを神とするご神体を祀った摠見寺を建立している。天正一〇年には甲斐の武田家を攻め滅ぼす。それから間もなく家臣明智光秀の謀叛をおこし、京の本能寺を急襲される。信長は自ら槍を持って奮戦するが支えきれずに自害する。
生 没:永正八(1511)年~天文二〇(1551)年
弾正忠。父である織田信定の嫡男。尾張守護代織田大和守の三奉行の一人であった。天文年間に頭角を現し那古野城を奪うのを契機として、尾張国内では他の豪族などに比べ、頭一つ飛び出る勢力となり、国内の統一に力を注ぐ様になる。しかし敵は尾張国内だけではなく隣国の美濃や三河にも存在していた。天文一六(1547)年には隣国美濃の稲葉山城下付近まで攻め入るが、斎藤道三の用兵の前に大敗北を喫して敗退。また三河へは安祥城を奪取するが、敵対する勢力が駿河太守でもある今川氏とあって予断がゆるされない状況であった。そんな中、天文一七(1548)年には美濃の斎藤氏と婚姻を結び同盟関係を築くことには成功。外敵を外交によって抑えつつ尾張統一を目前にしていたが、実現する前の天文二〇(1551)年にこの世を去った。
生 没:???? ~天正二(1574)年
別 名:津田信広
織田信秀の第一子。津田姓を名乗る。信長の異母兄にあたる。天文九(1540)年には、織田家の一将として三河安祥城主として、三河勢と対峙するが、今川方に捕らわれてしまう。織田家に帰する為、織田家に居た竹千代(後の徳川家康)と人質交換が織田家と今川家の間にて行われた。弘治(1557)三年には異母弟の織田信長に一度は反旗を翻すが、未遂に終わる。その後は織田信長に従うことになる。元亀三年には美濃岩村城を守備するが、武田家の武将秋山信友に攻められ落城。天正二(1574)年の伊勢長島一向一揆征伐に出陣をするが、一揆勢により放たれた鉄砲の流れ弾により討死した。
生 没:????~弘治三(1557)年<
別 名:織田信勝
織田信秀の子。勘十郎。兄の織田信長がうつけ者と言われていたのとは逆に、信行の織田家での評判は上々であった。父の信秀の葬儀後の家督相続では、信長を排して信行を推す重臣も出てきた。織田家重臣で信行付きの柴田勝家や筆頭家老林秀貞である。末盛城主となった信行と兄信長との対立は激化するばかりであった。そして弘治二年(1556)年には稲生原にて柴田勝家率いる信行軍と織田信長軍が対陣。しかし寡勢の信長軍に柴田勝家は散々に打ち負かされてしまい、信行は兄信長に降伏して家臣もろとも罪が許された。しかし弘治三(1557)年に再度、謀叛を試みたが実行前に察知され、実兄の織田信長に清洲城に呼び出され斬られた。
生 没:永正一一(1514)年~天正一一(1583)
信濃守護職。天文一〇(1541)年に家督を父の長棟より譲られる。安曇、筑摩郡を中心としてその勢力は、北の村上氏と信濃を二分するほどの影響力を担っていた。しかし隣国の武田信玄が信濃攻略を進めるなか、頑強に抵抗した一人である。しかし諏訪を攻め、そして佐久地方まで勢力を伸ばした武田氏には勝てなかった。天文一七(1548)年の塩尻峠の合戦で大敗。天文一九(1550)年には深志まで武田勢に攻められ、さらに武田信玄の謀略もあり、わずかな供周りでもって村上義清を頼って落ち延びた。しかし村上氏も武田家の前には風前の灯火でもあり、さらに北方の春日山城主であった長尾景虎を頼った。そこでも腰を落ち着かせられなかった長時は、京の三好長慶の庇護を受け、摂津芥川城に入城する。しかし今度は織田信長の侵功によって遇えなく落城。再び長尾景虎をたより越後へ落ち延びたのであった。晩年には会津の芦名氏の元に身を寄せていたが、天正一一(1583)年に長い流浪生活に終止符が打たれた。
生 没:文明一三(1491)年~永禄四(1561)年
日意。武田信虎,信玄の二代に仕えた甲斐の武将。父は遠江の人。甲斐国内はもとより,駿河今川氏や,相模北条氏との合戦で功があり,信虎より一字をもらい虎盛と名乗る。信玄の時代には足軽大将となっている。若き日の馬場信房や高坂昌信といった武田家の中枢を担うこととなる武将の,補佐役として十二分な働きをして助けていた。甲州塩川河原での奮闘降りは後生に語り継がれている。生涯で合戦におよぶこと三十数回,からだにも41カ所の傷をおっていた。歴戦の勇姿も老齢には勝てず,永禄四(1561)年にこの世を去る。「よくみのほどをしれ」が遺言であると伝えられている。
生 没:????~永禄八(1565)年
別 名:
武田義信の傅役。武田信虎時代に佐久地方での守備を任されていた。天文一〇(1541)年の政権交代の際は、板垣、甘利等と共に武田信玄を擁立してこれの補佐に当たった。合戦においては常に先陣であり、「甲山の猛虎」と言われていた。さらに朱一色に統一された軍装から「赤備え」として、敵方からは怖れられていた。永禄八(1565)年、武田義信の謀叛の疑いを一身に背負いつつ、自刃して生涯を終えた。
生 没:天文八(1539)年~天正一〇(1582)年
武田家の家臣。天正一〇(1582)年、織田の軍勢に攻められた武田軍は、新府城で主君である武田勝頼を囲んで軍議を開いた。その際に信茂は勝頼に対して、居城でもある岩殿城への籠城を薦めた。自らは勝頼を迎える準備があると、一足先に居城へ戻った。だが信茂は勝頼一行を城へは迎えずに、甲州勝沼の辺りに守備兵を増強した。最後で主君である勝頼を裏切ったのである。そして勝頼一行が天目山で自刃を遂げた後、信長に謁した信茂はその場で成敗された。